出 版 社: 白水社 著 者: カティア・ベーレンス 翻 訳 者: 鈴木仁子 発 行 年: 2009年02月 |
< ハサウェイ・ジョウンズの恋 紹介と感想>
ハサウェイ・ジョウンズは文字の読み書きもできないし、自分の誕生日さえも知らない。母親はおらず、一緒に暮らしている無骨な父親は、毎度「戻ったか・・・」とハサウェイに声をかけるだけで特に会話をすることもない。ゴールドラッシュに浮かされて砂金を採りに、この西部にやってはきた親子は、夢果たせず、結局、ラバを引いて荷物を運ぶことで生活をしのぐようになった。ハサウェイは宛名書きだけをなんとか覚えて、郵便物を配達する。単純で単調な毎日。ごく素朴な少年である彼が唯一楽しみとしているのは、物語を作って人に話をすることだった。19世紀半ばのゴールドラッシュに沸いた西部には、いささかいかがわしい、訳ありの人たちが集まっている。粗野で荒涼とした町に生きる人々は、酒をあおり、飲んだくれながら暮らしているのだ。ハサウェイが恋をしたのは、農場の少女フロラ。幼い頃、ロンドンから渡ってきたという彼女は、豊かな家に育った母親直伝でピアノも弾くのだ。さて、希望と失望の渦巻くこの町には、思いがけない死が、やたらと足もとに転がっている。多くの死や非情な事件の目撃者たるハサウェイ・ジョウンズは、それでもここで生き抜いていくのだ・・・。硬く「である調」でまとめましたが、ゴールドラッシュ期の荒々しいアメリカ西部を背景にした、ごく小さな魂の記録です。
タイトルからして恋愛モノかと思いきや、意外にも不思議なビジョンを持つ作品で、むしろこの荒々しい時代と場所で生きるハサウェイ・ジョウンズという少年の存在、たたずまい、そのものを主題としたような作品でした。恋愛のエピソードはあるものの、タイトルとしてピックアップすべきことなのか、と途中から疑問に思ったぐらいで、これも邦題に引き寄せられて読んでいたせい。原題は人物名である「Hathaway Jones」のみなのでした。つまり『デビット・コパーフィールド』とか『オリバー・ツイスト』とか『トム・ジョーンズ』と一緒です(と書こうと思ったら、トム・ジョーンズは『捨て子トム・ジョーンズの物語』が原題なのだとか)。こうした主人公のフルネームがタイトルとなる作品には、相応に意味があると思っています。この物語では、禍々しい事件が起きるものの、実に静かにやり過ごされてしまうし、ハサウェイの恋愛もまた、ごくささやかに展開するだけのものです。得恋の胸の高鳴りや、嫉妬の痛みは、全時代万国共通の共感をもたらしますが、波乱万丈というほどではない。むしろ、この西部の自然と、粗野で乱暴なものが溢れる荒涼感を背景にして、人が小さな歓びをもって生きるということについて、無性に考えさせられてしまいます。人の命がまだ安価だった時代の、その荒野の人生。風に転がっていく運命には、また感じ入るところがあります。そして、なすこともなく、されど大禍なく、幸福に過ぎ去っていった人生についても。このハサウェイ・ジョウンズという人間自体が、ひとつの歴史の情景なのだと感じ取らされる構成も不思議な魅力はあり、なんだか言い知れぬ読後感が残される作品ではあります。
この作品、2010年の(第56回青少年読書感想文全国コンクール)課題図書の高等学校の部に選出されています。テーマが捉えにくいし、読み解くには、論理的な知性よりも、感性が必要とされるし、この作品に何を思うかは、かなり個人的資質が問われるような気がしています。まさか原住民問題に焦点が当てられるわけでもないと思うので、この作品を現代の高校生がどう読むかは、大変、興味深いところです。この世界の中で、自分自身を石コロのようなものだと思え、と自覚を促すのは、個を重視した現代の教育下ではありえないことですね。過剰な自意識を持て余しているのが、文明化の果ての現在にあるもので、それは生きていく上で「足かせ」になるにも関わらず、尊重されているものです。しかし、現代社会は再び荒涼とし始めている。高校生がそれを自覚しながら、一個のハサウェイ・ジョウンズならぬ自分を、過酷な世界で、どう遇していくのか、そんな葛藤が感想に表現されていたら面白いのではないかなどと僕は思っています。そして、自分がなにものでもないということにさえ無自覚である人生にも、実は、多くの喜びはあるのだということを、漠然と考えているのですが、おそらく考えすぎでしょう。今さらながら、本から得るところは大きいな。尚、表紙がとても美しいのでご注目。