カイサとおばあちゃん

リンドグレーン作品集 23
Kajsa kavat.

出 版 社: 岩波書店

著     者: アストリッド・リンドグレーン

翻 訳 者: 石井登志子

発 行 年: 2008年09月


カイサとおばあちゃん  紹介と感想 >
稚い(いとけない)という形容詞があります。もはや日常では使わない言葉であるため、なんとなく、幼い(おさない)という言葉よりも、複雑な綾があるような気がします。名詞でいえば「稚さ」(いとけなさ)でしょうか。童心、と言ってしまうと、ちょっとノンキな感じもしますが、子ども心のフラジャイルな有様を顕わすには、結局のところ、名詞ひとつでは足りず、やはり「物語」が希求されるのだと思っています。リンドグレーンの『カイサとおばあちゃん』は短編集ですが、ここに集められた子どもたちの心の波動は、いずれも「身に覚え」がありながら、どこかに置いてきてしまった感覚の妙に溢れています。子どもたちをとりまく世界はヤワじゃないし、子どもたち自身も、手放しで危うい。楽しさも、歓びも、悲しみも、いろいろなことがあって、そのたびに揺れる子ども心がここにあり、それでいて、寡黙。しかし、その余白は饒舌です。起きる事件は、必ずしも幸福なものだけではないのだけれど、作者の優しい眼差しが、そうした子ども心を見守っていることに力づけられながらページをめくることができる、そんな感じがします。石井登志子 さんの訳の語り口もまたいいんです。

やっぱり、子どものお話って、教訓的な落とし話でないにしても、教育的・倫理的・道徳的に正しいとされる帰結が求められがちなのかなと思うことがあります。「修身」的なものや「月曜講話(物語)」的なものは、さすがに現代からは姿を消したし、露骨な教化性のある物語と出会うこともない昨今ですが、「適切な良識」のようなものに支配されている感覚に出会うことはままあります。先日、教育関係の方々と児童文学のお話をさせいただいて、教育現場的にはそうした良識が必要かと思ったものの、それは(児童)文学的なのか、という疑問を大いに感じてしまいました。優れたアーティストでもある教育者もおられますが、初等教育の学校教育的教育者が尊んでいるものはそこにないのかなあ、というのを感じてしまったのです(まあ、個人差はあるでしょうけれど)。今回、『カイサとおばあちゃん』に、養殖モノにはない天然モノの野趣を感じたのは、多少、泥はついているし形は悪いけれど味は濃い、そんな感じだったのかな。

個人的には『エヴァ』と『プリンセス・メーリット』、あと『お休みなさい、放浪のおじさん!』が好きでした。なんだか、ヘヘヘって感じの歓びや、ギュっと唇を噛み締めてしまうような悲しみや、ちょっと驚いてしまったり、喜んでしまうようなことが表現されています。色々な気持ちの揺らぎがあるのだけれど、そんなことも、いつか忘れてしまって、置いてきてしまうものですね。それなりに事情のある大人と、黙っている子ども、の間に生じている寡黙な交歓を読みたい方にはお薦めの本です。『カイサとおばあちゃん』は、本国では1950年に出版された作品であるとのこと。現代のような危機はないものの、現代にはない危機もある時代。スウェーデンの時代感覚はわかりにくいのですが、国内作品でいえば、住井すゑさんの『夜明け朝明け』あたりと同じなんでしょうね。現在、高橋秀雄さんが書き続けられている『父ちゃん』シリーズや、昭和二~三十年代を舞台にした作品は、ポストモダン児童文学ですが、あの舞台となった時代感覚の中でなければ書き得ないものがある気がしています。無骨な大人たちと寡黙な子どもたちの交歓の味わいを、そのまま取り出してくる児童文学の衝撃には、毎度、感慨を新たにしています。

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