カンヴァスの向こう側

カンヴァスの向こう側

LYDIA’S SECRET.

出 版 社: 評論社

著     者: フィン・セッテホルム

翻 訳 者: 枇谷玲子

発 行 年: 2013年10月

カンヴァスの向こう側  紹介と感想>

スウェーデンのストックホルムに暮らす少女リディアは絵を描くことが好きな十二歳。彼女が有名な絵画を媒介にしてタイムトラベルする物語です。リディアは直接、手で触れることで、その絵が描かれた時代と場所に行くことができます。最初は意図したものではなく、うっかり絵に触れ、何故か見知らぬ世界に迷い込んでしまったことにリディアは戸惑います。やがて、触れることで、その絵が描かれた時代と場所に移動するという因果関係を理解するのですが、ここで気づくのは、絵は「過去」に描かれたものだということです。つまり、リディアは過去にしかいけないのです。絵を繋いでどんどん過去に遡っていくリディアは、どうやって21世紀に戻ったのか。リディアが目にする著名な絵画は、後々、有名になったものですが、描かれた当時はどうであったのか。後世に名前を轟かせる画家たちも、まだ世界的な評価を得ている巨匠ではありません。一体、どれほどの年月を経て、有名な絵画や画家の定評は培われたのかと思うところです。それぞれの時代で個性あふれる画家たちと出逢い、当時の文化を見聞きする現代っ子リディアの感性がその時代を捉えていきます。SF的な仕掛けよりも、違う時代の文化に紛れこんだ渦中で自分のアイデンティティを探求することが児童文学タイムトラベル物語の常套です。お馴染みの絵画が多数登場するのですが、図版がないのが残念なところです。ネットで検索しながら読み進めると、より楽しめるかと思います。

朝から晩までいつも絵を描いてばかりの少女、リディアは、それでも自分の絵に満足することはなく精進しています。ある日、公園で絵を描いていたところ、鳥に鉛筆をかすめ取られるという事件に遭遇します。鳥に気をとられていたからかスケッチブックを置き忘れてしまい、取りに戻ったところ、スケッチブックには誰かがページをめくった跡と、三日後の日付と時間が書き残されています。果たして、その時刻に公園に向かったリディアは、自分よりちょっと歳上の少年と出会うことになります。鉛筆を返してくれた少年は、あの鳥、なのでしょうか。鳥少年はリディアに薬のケースを渡すと、言葉が分からない時に飲めばいいと不思議なことを言います。その意味をリディアは、後日、知ることになります。祖父と国立美術館を訪ねた際に、レンブラントの『キッチン・メイド』に惹き寄せられたリディアは、我知らず手を伸ばして絵に触れてしまいます。そこで世界が暗転し、リディアは見知らぬ世界にいました。ここがオランダのアムステルダムだと途方に暮れるリディアに教えてくれたのは、声をかけてくれた老人で、しかも今は一六五八年だというのです。外国語のはずが、鳥少年からもらった薬の効能で通じるようです。老人の家に連れて行ってもらったリディアは、この老人がレンブラント当人だと知り驚きます。『キッチン・メイド』のモデルであるメイドのヘンドリッキュもそこにいました。事態を飲み込んだリディアは、正直に自分の事情を打ち明けるものの信じてはもらえません。やがて、リディアは十七世紀の世界に馴染んでいきます。画家になりたいというリディアに、女性にはつとまらないと諭すレンブラントの考え方にはもちろん時代の隔たりがあります。それでもレンブラントから、レンブラント光線の秘訣を聞くことが出来たり、スケッチブックの絵を彼の息子のティトゥスにほめられたりもします。レンブラントと画商とのトラブルに巻き込まれたリディアに危機が迫り、間一髪のところをまた別の絵画に触れることで脱出します。その絵は『ラス・メニーナス』。こうしてリディアは、やはり十七世紀中葉のスペインの宮廷で絵を描くベラスケスの元に辿り着くのです。絵を媒介伸ばしてしたリディアの時間旅行はさらに続きます。

タイムトラベラーであるリディアは、どの時代でも自分が未来から来たことを隠そうとはしません。そもそもジーンズを履いた、男の子のような格好をした少女は異端な存在であり、未来から来た、とでも言わないかぎり説明がつかないのです。画家本人に、後の世で評価されていることを教えてしまうこともあります。ここでタイムトラベラーが未来のことをバラすことによるパラドクスの心配をしてしまうところですが、誰もリディアの言っていることを信じないために、それは回避されます。実際のところ、歴史を変えるには、その世界で影響力を持ちうるような大きな力がなければならないわけで、今、世界で起きている悲惨な戦争を止めることが個人の力ではできないように、蟷螂が斧という現実があります。ということで、各時代の文化に触れ、後の巨匠たちと交流しながら、非力なタイムトラベラーであるリディアは時代に影響を与える側ではなく、影響を与えられる側になるのです。なにせ、巨匠たちに、スケッチブックに描いた自分の絵を見てもらいアドバイスをもらえるという好機です。自分がどんな絵を描くべきか、自分はどう生きたいのか。その心の探求の旅こそが児童文学タイムトラベルの妙味です。さて、最後のエピソードで(続編もあるので、この巻ではということですが)、リディアはサルバドール・ダリと出逢います。シュールレアリズムの巨匠として、もはや歴史上の人物という感覚もありますが、20世紀末まで存命だったことを思うと、まさに現代人です。映画美術も担当したり、その活動は絵画だけにも留まっていません。自分などは、子どもの頃にダリが存命だったかと思うと不思議な気持ちになります。巨匠も偉人も現在、リアルタイムで生きているものであり、その創作や活動を進行形で見ることができるのは僥倖ですが、なかなかその素顔に触れることはできないものです。リディアの幸運は、傑出した人物との出会えたことであり、それはタイムトラベルなしでも実現できるものであると思うと、現代で交流することへの可能性を考えさせられるものです。