ディッキーの幸運

ディッキーの幸運

HARDING’S LUCK.

出 版 社: 東京創元社

著     者: E・ネズビット

翻 訳 者: 井辻朱美 永島憲江

発 行 年: 2014年09月

ディッキーの幸運  紹介と感想>

児童文学ファンタジーの巨匠ネズビットが1908年に書いた、おそらくは世界初のタイムトラベル児童文学『アーデン城の宝物』のスピンオフ続編です。やはり本書もタイムトラベルが題材となっています。本書の方がまとまりも良く、読みやすく感じるのは、前作の主人公たちよりも、本書の主人公の少年、ディッキー・ハーディングの方が感情移入しやすいからではないかと思います。『アーデン城の宝物』は物語の現代である20世紀初頭から、百年、二百年、三百年と過去に遡って、自家に伝わる宝物を探そうとする幼い姉弟、エルフリダとエドレッドの物語でした。今はすっかり没落しているものの、かつての名家の末裔である子どもたち。先祖である過去の時代の子どもたちと一体化できる二人は、未来人であることを気づかれないまま、過去の世界で気ままに行動し、時に、未来を知ることから、歴史上の陰謀事件のことを口走り幽閉される目にあったりと、ややタイムトラベラーの自覚に欠ける粗忽な行動もありました。家に伝わる財宝を探す彼らが、三百年前の世界で、いとことして出会ったのがディッキーです。良家の令息であるディッキーですが、実は彼もまた現代から、この時代に紛れ込んでいた少年でした。元の時代では貧民街に暮らす両親のいない片足の不自由な少年である彼は、どうやってこの時代にやってきていたのか。『アーデン城の宝物』の物語と交差しながら『ディッキーの幸運』は進行しますが、このディッキーの心映えが愛おしく、ぐっと思い入れてしまうのが前作の主人公たちと異なるところです。過去と現代を行き来しながら、エルフリダやエドレッドは、ディッキーと再会します。三百年前の世界では貴族の子弟だった彼は、現代では足の不自由な貧しい少年なのです。でも、二人には何となくわかる、というあたりが、ちょっといいところです。そんな人品骨相の豊かな少年ディッキーのどちらが彼のデフォルトなのか。過去はもう起きてしまったことだ、という前提が、歴史改変などのパラドクスを考えさせないあたりも、この原初のタイムトラベル物語に驚かされるところです。もとよりSF的仕掛けよりもぐっとくるのは子どもたちの邪気のなさや健全さ、心映えの美しさであり、このファンタジックな設定との不思議な調和を感じます。

ロンドンのニュークロスのみすぼらしい家に暮らす貧しい少年、ディッキー。片足が不自由で松葉杖をつかなければ歩くこともできず、両親は亡くなり意地悪な大家のおばさんに家に置いてもらっている心細い立場でしたが、それでも頭が良く機転がきき、明るさと賢さを合わせ持っていました。みじめな暮らしにあっても、好奇心があり行動的です。心映えの良い彼は、ちょっと人好きがするタイプなのです。ある日、行きずりに知り合った物乞いのおじさんから家を出ることをすすめられたディッキーは、そのビールおじさんと一緒に旅をしながら物乞いをして暮らしすことになります。ビールおじさんが泥棒の片棒を担ぐことになり、ディッキーもお屋敷に忍びこむ手伝いをさせられて、一人で捕まってしまいましたが、その家の奥様に気にいられ、思わぬ厚遇を受けます。それでもディッキーは、自分に親切にしてくれたビールおじさんのことが忘れられず、なんとか再会しようと、お屋敷を逃げ出します。おじさんを探すうちに、ディッキーは、亡くなった父親から受け継いだ、おもちゃのガラガラと、ムーンフラワーの花を組み合わせることで、偶然にも時を超える魔法を発動させてしまいます。ディッキーの暮らす現代(1907年)から三百年前のイギリスのジェームス一世朝で目覚めた彼は、そこで自分が貴族のアーデン家の御曹司であることに驚かされます。裕福な暮らしと不自由ではない身体。大切にされ、豊かな教育も受けられるというのに、ディッキーはこの夢の世界から、また元の世界に戻りたいと願うのです。それは優しくしてくれたビールおじさんと会うためでした。おじさんと現代で再会したディッキーは、過去の世界を行き来して覚えた技術で生計を立てていきます。そして物乞い生活から脱した二人が、ビールおじさんの父親に会いに行った際に、ディッキーは、過去の世界で親交のあったエルフリダとエドレッドの姉弟とも再会します。そうして三人は時間移動の魔法を駆使して失われたアーデン城の宝探しを始めるのです。姉弟の父親であるアーデン卿とも時間移動の旅の中でディッキーは浅からぬ縁がありましたが、実は、貧しい孤児である現代のディッキーこそが、正統なアーデン卿を継ぐべき血統であることも判明し、物語は思わぬ帰結へと展開していきます。

貴族の当主であることがそんなに大切なことなのか、とか言い出すと元も子もないでしょう。貧富の差と、人間としての貴賤も無関係だというのが、現代(二十一世紀前葉)の認識だと思いますが、百年以上前の英国の物語の中の現代とは、ベースとして感覚的な違いがあるのかも知れません。これぞ古典を読む楽しみです。そんな当時の良識の中で生き、心的制約を受けている人間たちだからこそ、ディッキーの最後の決意も胸に響くものもあります。ビールおじさんは、かなりダメな人で、当初は足の不自由なディッキーを連れていれば、物乞いの実入がいいんじゃないかぐらいのイージーさで一緒に行動を始めるのです。ですが、次第にディッキーの賢さや、彼が自分を思いやる気持ちにほだされてしまいます。後になって考えれば、ディッキーは高貴な生まれであり、所謂「やつし物」の主人公の典型なわけですが、そんな彼が市井の人たちを曇りない目で見つめて、名誉も地位も財産も関係なく人を愛するということの意味は、この時代の物語だからこそもっと深いのでしょう。古典や、過去に書かれた物語の読書もまた感覚的なタイムトラベルだなと思うところです。自分が正当なアーデン家の後継者だと知ったディッキーはどう行動したか。時代感覚の中で考えるべきことと、人間の普遍的な心根の美しさを愛でたいと思う気持ちが浮かんできます。児童文学におけるタイムトラベルという物語の題材はここから綿々と受け継がれ、多くの作品を生み出していきますが、SF的な仕掛けの面白さとはまた違う魅力があるものと思います。