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出 版 社: アーティストハウス 著 者: ベン・ライス 翻 訳 者: 雨海弘美 発 行 年: 2000年12月 |
< ポビーとディンガン 紹介と感想>
イマジナリーフレンド(空想上の友だち)は、普通の人の目には見えないという点では、妖精に近い存在です。妖精の実存を認める世界線かどうかで状況は異なりますが、仮にこの世に妖精がいないとするならば、見えることは妄想であり、幻覚です。大抵の妄想は、あまり良くない心のコンディションが見せる幻です。自分の悪口を言い続けるラジオの声に苛まれることがあっても、幻聴に励まされるという話をあまり聞きません。とはいえ、居るはずのない妖精が見えるのは、そう不幸なことではないのかも知れません。常軌を外れてしまっていることは同じなのですが、やや心持ちが違うものでしょう。本書は、八歳の少女の、いなくなってしまったイマジナリーフレンドの捜索を家族が地域に訴えるという、やや驚くべき展開を迎える物語です。誰にも見えない存在を探すのです。賞金がかかっていることもあり、見えないものを「でっちあげる」人も現れます。妖精を捕まえる方法は存在するのか。純粋なマインドがなければ妖精を見ることができず、そんな心根の持ち主は妖精を捕まえようとはしないので、永久に妖精は捕まらないという循環が成り立ちます。イマジナリーフレンドもまた他人には見えません。ただ見えなくても信じることはできるし、信じている人の気持ちを大切にすることもできます。それが他人のイマジナリーフレンドを見る方法なのかもしれません。自分もイマジナリーフレンドへの態度を決めかねるところですが、他人の信仰を蔑ろにしないこと同様に、尊重すべきものかとは思います。
アンジェルはオーストラリアのオパール鉱山に住む四人家族の長男です。「ポビーとディンカン」が死んだのではないかという八歳の妹、ケリーアンの心配に、兄であるアンジェルは呆れます。そもそも「ポビーとディンカン」は彼女の空想上の友だち(イマジナリーフレンド)であり、実在しないのです。それなのに、これまで両親はケリーアンのために、「ポビーとディンカン」の食事を用意したりと、娘につきあって、あたかも空想の二人がそこにいるように振るまってきました。アンジェルとしては面白くないところです。「ポビーとディンカン」のこの町での認知度は高く、あたかも実在するかのように扱われてきましたが、家族としてもそろそろケリーアンがもう少し大人になって、妄想から距離を置いても良いのではないかと思い始めています。宝石や鉱石の採掘に入れあげている父親は、ケリーアンが学校に行っている間は、二人を預かって採掘場に連れていくと言い、距離をとらせようとしますが、そのせいでケリーアンは「ポビーとディンカン」が見えなくなったと訴えるのです。二人は採掘場で事故に遭い、死んでしまったのではないか。心配を募らせるケリーアン。「ポビーとディンカン」の存在を認めていなかったアンジェルもにわかに妹の異変を心配になっていきます。父親もケリーアンとともに採掘場に探しに行き、捜索範囲を広げる中で穴あらしの不法侵入と訴えらることになってしまいます。「ポビーとディンカン」は見つからないまま、ケリーアンは心を痛め、食事も採らなくなり衰弱していきます。妹を心配したアンジェルはなんとか二人を探さなくてはと考えて、町の人たちに向けて、行方不明者の捜索を訴え、見つかったら賞金を出すとポスターを貼り出します。その効果で、二人を見つけたという人たちがあらわれるようになりますが、もちろん姿は見えず、ケリーアンにはそんな嘘は通用しないのです。二人の生存を疑うようになり絶望を隠せないケリーアンのために、アンジェルは再度の捜索に乗り出します。イマジナリーフレンドを信じないまま、妹のために見えない友だちを探すアンジェル。そして、ついに採掘場で、アンジェルは二人の死体を見つけることになるのです。
本書に興味を惹かれる点は、主人公の一家がなんとなく地域の鼻つまみものであるあたりです。変人一家を遠巻きに見守りながら、噂の種にするあたりが閉塞的な地域コミュニティのあり方ですが、『百年の孤独』の大いなる悲哀ではなく、もうちょっと卑近な疎外感のようなものが文学としては魅力のあるところです。宝石採掘に憑かれた父親とイマジナリーフレンドの存在を公言してはばからない娘。それが面白がって見られているうちは良いのですが、危ういバランスでもあります。国内作品の方がそうした地域社会の生暖かい温度感に馴染みがあるもので『おひさまへんにブルー』のような感覚は胸に落ちるところがありますが、外国もまた然りか、本書の主人公の家族と地域コミュニティの関係もまた実に微妙です。そんな一家が地域の力を借りなくてはならない状況が面白いというか、困った感じを醸成します。穴あらしとして訴えられた父親が、娘のイマジナリーフレンドを探すための仕方がない不法侵入だったと裁判で主張しても情状酌量は得られないだろうし、いくらアンジェルが告知しても亡くなったイマジナリーフレンドの葬式に参列してくれる人がどれほどいるかというところですが、ここに残される希望が胸を熱くさせるところです。実在しなくても、誰かが信じているものを蔑ろにはできない。誰かが信じてくれることで、荒唐無稽もまた現実となるのか。人が人に寄せるまなざしの温度について、考えさせられるのです。