僕は何度でも、きみに初めての恋をする。

出 版 社: スターツ出版

著     者: 沖田円

発 行 年: 2015年12月

僕は何度でも、きみに初めての恋をする。 紹介と感想>

「記憶喪失」は物語のワイルドカードであり、劇的展開を促したり、制約条件となって、展開を面白くする効用があります。目覚めた主人公が記憶喪失で、となると読者もまた主人公と一緒に失われた記憶のピースを探すためのスタートを切ることになり、没入感も増すというものです。とはいえ、作劇的に都合の良すぎる展開や、やりすぎと思ってしまうものもあり(『グイン・サーガ』も二度目の記憶喪失に驚きました)、また現代(2024年)では、医学的根拠も示さないと説得力に欠けるものと見なされるでしょう。逆に言えば、記憶喪失を引き起こした脳の障がいや心因についての現実感が物語のリアリティを支えるのです。一過性全健忘という、その日一日の記憶が翌日には消えて、リセットされてしまう症状があります。多くの物語に登場する症例で、その制約条件から、実に劇的なドラマが生まれています。本書もまた記憶を一日しか保てない少年が登場します。記憶の欠落をメモや写真で補うことで不便を克服していますが、人間にとって記憶は、単なる記録ではなく、その時、意識しなかった心の動きも含めて、生きてきたことの結晶でもあり、ハードディスクの故障のようには代替がきかないというのが真理です。忘れてしまう当人も辛いでしょうが、忘れられてしまう人たちもまた辛いものです。本書は、忘れられてしまう側にいる主人公からの、この題材へのアプローチです。理不尽を受け止めて、それでも、ともに生きていくことを模索しようとする。誰もが忘れてしまっても、それでも遺されるものはあるはずです。

学校帰りに噴水のある小さな静かな公園で、一人空を見上げて佇んでいたのは、高校一年生になったばかりの女子、星(セイ)です。その時、聞こえたのは、もの思いに沈む彼女の姿を断りもなくカメラで写すシャッターの音でした。気軽に声をかけてくる、そのカメラの主は、ハナと名乗る少年でした。フレンドリーなハナは、セイを景色の良い場所に案内すると、綺麗なものを憶えていたいから写真を撮るのだと告げます。嫌なことを忘れたいから空を見上げるセイは、素気ない態度でハナに応えますが、微笑みを絶やさない彼は、また会えるかなと屈託なく言うのです。後日、公園でセイと再会したハナは、ちゃんとセイのことを憶えていたと嬉しそうに言います。自分で言ったことも覚えていない、どこかズレたハナを不審に思うセイでしたが、そこでハナから、彼が抱えている記憶障がいについて打ち明けられます。事故の影響で脳に障がいを負い、一日前のこともほとんど覚えていられないというハナ。それでもセイのことは、ずっと考え続けているから、記憶を保てるのだといいます。その事実に衝撃を受けたセイは、ハナに何があったのか、ひとつ学年が上のハナと、同じ中学出身の同級生に話を聞き、事態を掴んでいきます。セイはハナと親しくつきあうようになり、彼のほんわかとした振る舞いに、家庭の問題に心を傷めている自分を癒やされるようになります。セイの悩みを解決することは何もできないけれど、そばに寄り添っているというハナ。心優しく純心で無垢なハナに、セイもまた寄り添いながら、すべてを忘れてしまうハナが、それでも与えてくれる大切なものに深く感謝するのです。しかし、ハナの病状は回復することなく、その記憶障がいはさらに重くなっていきます。やがて、セイのことも全く忘れてしまう未来が待ち受けています。その時をハナとセイはどう受け止めたのか。会うたびに、はじめましてを繰り返す二人の物語がやがて始まろうとしています。ここでタイトルの伏線が回収されるという哀切を読者もまた受け止めることになるのです。

この劇的なドラマの道具立てである記憶障がいは、寛解することもなく、より過酷な運命に登場人物たちを追い込んでいきます。そして、その受苦の向こうにこそ、純愛のエッセンスが見い出されます。飄々として、自分の宿命を受け入れているかのようなハナですが、セイとの関係が深まっていく中で、忘れてしまう自分の苦みをようやく吐露します。やがて、自分が忘れていることも忘れてしまう時がくる。それは、忘れられた側が受け止めていくしかないものです。セイはハナから与えてもらったものを胸に刻み、寄り添い続ける覚悟を決めます。その悲痛と、大きな愛に、やはり気持ちが動かされます。さて、物語には、もう一つ軸がありました。ずっとセイの心を塞いでいたのは、両親の不仲です。離婚の危機もそこには見えていて、セイは家に帰るのも苦しく、ただ空を見上げて気持ちを抑えるしかなかったのです。両親の離婚という題材は、時代の趨勢の中で、物語における描かれ方も変遷しています。児童文学の中でさえ、深刻に捉えすぎに、ごく当たり前のことのように描く潮流がありました。そうした形で子どもたちを安心させ、力づける意図があったのだろうと思います。 しかしながら、これはやはり重い事態であり、本書におけるセイの悩み方や心の傷め方は、児童文学には失われつつある、正攻法です。そこには物語の舞台設定を超えて、真に迫るものがあり、そうした「ある意味、ベタな表現」が醸し出すものを大いに感じさせるものであり、表現の可能性を考えさせるものでもあるのです。