ぼくとあいつと瀕死の彼女

ME AND EARL AND THE DYING GIRL.

出 版 社: ポプラ社

著     者: ジェス・アンドルーズ

翻 訳 者: 金原瑞人

発 行 年: 2017年08月


ぼくとあいつと瀕死の彼女  紹介と感想 >
自分の存在感をなるべく薄くすることで、誰とでもうまくやる。そうやって学校を渡っていくのがグレッグのスタイルです。何故って、高校というのはサイテーなところだから。どこかのグループに属するなんてくだらないし、フツーの学校生活は送りたくない。つまり、体育会系でも、優等生でも、オタクでも、ゴスでもない、レッテルを貼られない自分でいたいのです。十七歳のグレッグは特別何かできることもなく、カッコいいわけでもない。それでもモテたいし、女の子にはウケたい。かといって、趣味でやっている映画作りのことは誰にも知られたくない。学校で(無印)のグレッグが、(映画監督)のグレッグなんて認知されるようになったら、これは耐えがたいこと。だから友人のアールと一緒に作っている実験映画は誰にも見せたことがない。なんて、思春期の鼻持ちならない自意識過剰が全部、ダメな方で開花している少年です。かといって内にこもるタイプでもなく、女の子にも積極的にアプローチします。とはいえ、ほめられると、ひたすら謙遜モードに入ってしまうわけで、実に面倒臭い。思春期ってそういう面倒なものですね。で、だいたい間違った方向にエネルギーを傾けて自爆し続けるのです。そんな十七歳の少年のダメっぷりを見守るこの物語。繊細なやぶれかぶれ。破天荒で、ウィットに飛んでいて、けっして上品ではないけど、下世話じゃない。主人公のグレッグがダメで、そのダメを自覚しながら、こじらせていって、で、結局、何もできなかったのかと言うと、そうでもない。少なからず、彼がこの世界にもたらしたものはあったのだと、そんな実感を抱く読後感です。なんというか、すごくジタバタする物語なんだけど、面白いですよ。

瀕死の彼女。同じ学校のレイチェルが急性骨髄性白血病に侵されていることを知ったグレッグは、彼女に会いにいくことになります。母親同士が親しいということもあるのだけれど、十二歳の頃にちょっとだけつきあったことがあったのです。レイチェルはグレッグの話をいつも笑って聞いてくれたけれど、地味な外見のレイチェルに飽き足らなかったグレッグは、ターゲットを変えてしまいました。グレッグってそんな奴。とはいえ、状況が状況です。気まずさもなんのその、二人は関係性を回復します。レイチェルはグレッグのジョークに相変わらずウケてくれる。グレッグは友人のアールもレイチェルのところに連れていくようになりますが、なんとアールは、自分たちが映画を作っていることをレイチェルにバラしてしまいます。当然、レイチェルは映画を観たいという。ここでグレッグは、困惑するわけです。これまでアールと作ってきた実験映画は、誰にも見せられないものだったのです。グレッグの父親の持っていた映画のDVDに刺激を受けた二人が作っているのは、『アギーレ/ 神の怒り』『乱』『地獄の黙示録』『2001年宇宙の旅』『ウィズネイルと僕』なんて、現代の普通のティーンが見ないような、わりと文芸性が高い作品をバカバカしくリメイクしたものばかり。要は、一般受けするものでもなし、グレッグのスノッブさが垣間見えるアレなわけです。ところがアールはレイチェルに映画を見せてしまい、案の定、大ウケします。複雑なのはグレッグの心のうちです。そうしているうちにも、レイチェルの病状は進み、放射線や抗がん剤の治療で髪の毛も抜けはじめます。そして、治療すら諦めなければならない事態に陥る。レイチェルのために何ができるのか。グレッグはここで、自分のこれまでのキャラクターを覆す決断をすることになります。

グレッグの友人のアールが魅力的です。荒んだ家庭に育ったアフリカ系アメリカ人。背が低く、喫煙癖があり、イラつきがちな若者。彼はグレッグのダメなところをズバズバと辛辣に指摘します。くだらないジョークを言い合う仲間であり、映画の共同製作者でもあるアール。大学の先生であるグレッグの父親もやや浮世離れしているタイプだし、母親は世話焼きで優しい人。要は、グレッグは良い友人と家族のいる十七歳のごくまとも少年なのです。友人の死に直面しながらも、グレッグは自意識の虜でしかなく、レイチェルのためにしたことさえも、後で反省せざるをえません。自己愛が強すぎて、人を愛せない。ポーズとカッコつけが先行して、人を悼むことさえ自然にできない。この物語は、愛と死を見つめられない思春期の少年のダメな自意識を照射しつつ、その傍らに、慈愛をもって少年を赦す少女を置いています。アールの視線の先にあるものもまた、魅せてくれるところがあり、グレッグの一人称主観から見せられるこの三人の空間には拡がりを感じました。なによりも、この作品には自分の十七歳の頃の、ダメダメな屈折した態度を思い出させられるのです。人に真正面から評価されるのが怖くて、ここではないどこかの世界に逃げて、自分の正体を隠しておきたくなるのは、皆さんおなじみの『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』です。意に沿わないレッテルを背負ってでも、どこかではないここで闘う覚悟をする前夜。みっともなく、恥ずかしい、愛おしい日々です。いや、そんなことないよなあ。