出 版 社: ポプラ社 著 者: 越水利江子 発 行 年: 2004年05月 |
< あした、出会った少年 紹介と感想 >
まぎれもない「愛の物語」なのだけれど、「愛」という言葉が、そうやすやすと使われないところがポイントです。いや、愛なんて、なかなか言葉にしないものですね。そうやって、はっきりさせないものだから、「愛されている」ってどういうことなんだろう、なんて、実は大人だって不確かすぎて、凄く不安になることなのかも知れません。小夜子と同じ長屋に住んでいる雪子さんは、妻帯者の大学の先生の愛人で、先生に愛されなくなったんじゃないかと自分でも疑い始めています。そこで、世の中に出回りはじめたばかりで、まだ高級品だったカラーテレビを自分で買って、先生に買ってもらったように見せかけ、長屋の人たちに自分がまだ愛されていると思わせようとします。そんな見栄で自分を支えようとするのは、愛が見えなくなったことの心細さなんだろうと思います。そんな愛もある。大抵の愛は、愛してるとか愛されているとか、言葉に出さないまま、そこにあるものです。この物語は、愛について、直接、言葉では何も語らないまま、愛に満ちた世界を見せてくれます。昭和三十年代の京都で暮す小学校四年生の小夜子の周りには、たくさんの愛があって、でもそれは、愛なんて言葉でパッケージされないものです。いろんな形の愛があります。この懐かしい場所には、切なさや、哀しみもいっぱいあるけれど、人が支えあう気持ちや、優しさも根づいていました。小夜子の視線の先にあった、そんな懐かしく、愛しい風景を、じっくりと見せてくれる物語です。
さて、小夜子は、ちょっとした疑念を抱きはじめていました。実は、自分はもらわれた子どもで、両親の本当の子どもじゃないのではないかという不審です。そういえば赤ちゃんの時の写真もないし、大人たちが口にする言葉の端々で、そんな事実をなんとなく知ってしまったのです。とはいえ、ショックに打ちのめされるわけでもなく、衝撃を緩慢に受け入れていく鷹揚さが小夜子にはあります。小夜子にもなんとなくわかっていたのです。小学一年生の時、お土産を持って自分を訪ねてきたおじさんは、本当のお父さんだったのかも知れない。両親を失って心を病んでいたといういとこのタケシは、たぶん自分の本当のお兄さんなのでしょう。それでも、それを口にすることはできません。今の両親を愛する気持ちと、濃いつながりのある家族を愛する気持ち。両方が織り混ざって、小夜子の中で渦巻いています。肝心なことは、はっきり言えないまま、胸に潜めていく。人を愛おしく、大切に思う気持ちは、カッコよく口に出すことはできないものですね。そんな形の愛もある。そして、小夜子が周囲の人たちから寄せられている思いにもまた、愛を感じます。高度成長期。まだ貧しい庶民の暮らしは不便もあるし、働かず、お酒を飲んで暴れるおじさんだって長屋にはいます。ただ、小夜子の視線が捉える大人たちの営みは、粗雑なところもあるけれど、どこか暖かいし、労わりあい、助けあっているように見えます。これは、小夜子の視点からだから見えた優しい世界であって、非情なものや、大人の哀しみにまだ小夜子が気づいていないからかもしれません。できれば気づいて欲しくないなと思ってしまうのです。そんなふうに小夜子を愛おしく思う気持ちもまた、読者の心の中に結ばれていくはずです。そんな愛もあります。
『風のラヴソング』の姉妹編です。けっして続編ではないというのが良いところで、あの物語の時間と場所を、もう一度訪れることができる、贅沢で至福の読書時間を味わえる一冊です。小夜子のいとこのタケシは、『風のラヴソング』の最初の語り手である、小夜子の兄の武志であると読者は気づき、胸が熱くなるかと思います。そして、みきちゃんとのエピソードも満喫できるのも嬉しいところです。みきちゃんの両親をはじめとして、朝鮮の人たちも何人か登場します。そうした人たちがここで暮らしている背景や、彼らが抱いている気持ちも、本作ではより詳しく触れられています。あの『キューポラのある街』が同時代作品として描かれた時代です。市井の労働者は貧しく、生活は苦しく、子どもたちの豊かなバイタリティこそが希望として描かれた頃。リアルタイムから四十年以上の歳月を経て、作者の回想のうちに描かれたあの時代。変わったものも、変わらないものもあるけれど、この物語に描かれる、あふれる愛や町や人々はきっと、ここから四十年経っても色褪せない鮮やかさを見せてくれると思うのです。