あたしのなかの魔法

Magic’s child.

出 版 社: 早川書房 

著     者: ジャスティーン・ラーバレスティア

翻 訳 者: 大谷真弓

発 行 年: 2009年02月


あたしのなかの魔法  紹介と感想 >
「魔法」というものを、新たな枠組みでとらえたYAファンタジーシリーズ(『あたしと魔女の扉』、『あたしをとらえた光』との三部作)完結編です。魔法を使える登場人物たちが、そもそも「なるべく魔法を使いたくない」というスタンスに立っている点がユニークで、独創的な物語が作りだされています。派手な魔法は使われないので、自ずとスケールは小さくなるのですが、それぞれが思い悩む葛藤の部分こそが妙味であり、十五歳の女の子がどのようにして、この「魔法」とともに生きるという宿命を受け入れるかということ自体が物語の焦点になっています。この物語の中での「魔法」は、いわば遺伝性の病気みたいなものです。魔法の因子を遺伝子に持っている人は、①魔法を使わないと気が狂ってしまう(精神が崩壊します)。②魔法を使うと寿命が短くなってしまう(二十代になるかならないで亡くなります)。生きて狂うか、早く死ぬか、という究極の選択。かといって③「魔法がない人生はつまらない」という、この三すくみの構図により、導き出される、魔法の扱い方の暫定的正解としては「魔法をちょっとずつ使う」ということになりますが、「魔法」の魅力には抗いがたいものがあり、節制的魔法生活も難しいのです。「魔法」は病気であり、依存性のある嗜好品であり、ある意味「才能」にニアリーなもののように思えます。「魔法」は扱いにくく、まさに危険な「才能」でもあるのでしょう。

小さな頃からオーストラリア中を母親サラフィナと二人で逃げるように暮らしてきたリーズン。何から逃げているのか。それは祖母エズメラルダの影響からでした。魔女であるという祖母を激しく憎む母親は、学校にも通わせないまま、リーズンにずっと独自の教育を施してきました。十六歳で母を生んだ祖母、そして、同じように十六歳で自分を生んだ母。そして、リーズン自身も、もうすぐ十六歳になろうとしています。そんな折、母が精神に支障をきたし、病院に入院してしまいます。保護されたリーズンはやむなく祖母、エズメラルダと一緒に暮らすことになります。小さな頃から祖母の魔女としての蛮行を聞かされていたリーズンは、決して心を許さないつもりでしたが、だんだんと自分の家にまつわる秘密が明らかになっていき、考え方を変えていきます。自分の一族の墓碑で知ってしまった、極端に早死にである家系の謎。そして、自分の中に眠っている凄い力と、数字に対しての異常な演算能力。リーズンは、やがて「魔法」の存在を認知し、その特性をいやがうえでも引き受けざるをえないことを知ります。魔法を否定するあまり、気が狂ってしまった母サラフィナ。魔法を小出しにすることで、なんと四十代まで生き延びることができた祖母エズメラルダ。やがてリーズンが出会うことになる「魔法」の力を持った二人の友人、トムとJ・T。正気を保ったまま、長く生き延びるためには、他人の「魔法」を吸い尽くさなければならない宿命を持った人間たちの業。そして、リーズン、トム、J・Tの、思春期的な揺れる心模様がミックスして、このYAファンタジーの世界は進んでいくのです。シドニーとニューヨーク、同時期でも夏と冬のこの二つの場所を行き来しつつ、不思議な物語は、ひとつの結末を迎えます。果たして「魔法」は人間にとって必要なものなのかどうか。

面白い命題を孕んだストーリーです。シリーズの原題は『Magic or Madness』、タイトルからして、二者択一なのです。主人公である子どもたちが、自分の誇らしい魔法の力を制御しながら、それでも使わないではいられない蟲惑感もまた伝わってきます。食べなきゃ死ぬし、食べると太って健康を崩すし、それでも食欲がなくなったら寂しい、というのは卑俗な例えですが、有限性の中で、何を優先するかという選択は多かれ少なかれあることで、魔法的な万能性を持たない「魔法」は、実にやっかいな代物として、この物語の中で異彩を放ち、象徴性を持っています。更に、その小さな枠を飛び越えた無限性からの誘いもまた物語には盛り込まれてきます。それは、上記のような「魔法」を使うことの葛藤を超えた選択ですが、新しい地平では人間でいられる保証もない、という、この八方塞がりの中で、「なにかを選択し、それを受け入れる」こと、そして人生を楽しむことの意味なども考えさせてくれる作品ではあります。ダイアナ・ウィン・ジョーンズを平易にした感じ、でもあるかな。やや理性的な作品で、それは主人公がリーズンと名付けられた意味と物語の内と外で呼応するような感覚でもありますね。