出 版 社: 偕成社 著 者: 小手鞠るい 発 行 年: 2018年07月 |
< ある晴れた夏の朝 紹介と感想>
アメリカの高校生が、太平洋戦争でのアメリカの日本への原爆投下の是非をディベートで問う、という異色の物語です。ディベートの実況中継ながら、主人公のメイがディベートでの相互の主張の内容を考え、掘り下げ、次のアクションに繋げていく心の動きが「物語」として読ませる作品となっています。このディベートによって人生に大きな影響を与えられたメイの後日談から始まる構成にも味わいがあって、高校生たちが死力を尽くして競い合った一大イベントの始まりに期待感を抱かされます。ニューヨーク州の小さな町のコミュニケーションセンター主催による討論会。ハイスクールの生徒たちの企画によって、原爆投下は正しかったのかどうか、肯定派と否定派に分かれて議論し勝敗を決するディベートが開催されることになりました。メイが原爆否定派のメンバーに誘われたのは、母親が日本人だからという出自のためです。一方で肯定派には両親ともに日系二世であるケンもいます。ユダヤ人であったり、中国系であったり、論理的に議論を交わしていくディベートにおいても、登場する高校生たちのそれぞれの出自が論旨に作用していきます。自分のスタンスを持っていることが言葉を説得力のあるものに変える反面、感情的な言説と思われるところもあります。やはり物語は人同士の気持ちの応酬にこそ魅力を感じるものです。読者の、中でも日本人にとっては、その立場として、それぞれの主張を感じとり、時に居を突かれることも反駁したくなることもあると思います。自分が、いや人間が本来、立つべき場所はどこなのか。ディベートの終わりに、そんなことを考えさせられる、示唆に富んだ物語です。
このディベートでは多くの論点での議論が行われました。高校生たちは大量の資料を読み込み、作戦を立て、相手の主張を勘案しながら、次の一手を繰り出していきます。平和を祈り、大量虐殺である原爆の非は前提としつつも、原爆は戦争を終結させる手段としての必要悪として認めるべきなのか。原爆が投下されたのは日本軍の残虐行為への鉄槌が下された当然の報いなのか。あるいは戦後の世界情勢を見据えてのアメリカが威勢を見せるための牽制に過ぎなかったのか。それもこれも相手が日本人であるから構わないという人種差別が根底にあったのではないか。こうした議論を重ねながら、高校生たちそれぞれの心情が垣間見えてきます。双方ともに論理的でありながらも、感情に左右されて揺らいでいくあたりに面白さがありました。主人公のメイもまた、資料の日本語を読み解く中で、日本人の心を知り、日本への興味を募らせていくようになります。論理的であることが求められながらも、論理だけでは計れないものにつき動かされる人の気持ちこそが魅力的なのです。読者である自分もまた極端な意見に「それとこれとは話が別でしょう」と言いながら「それにも一理ある」と思わされたり、ディベート会場の臨場感を楽しみつつ、自分ならどう意見を言えるのかとシュミレーションしてみる楽しさもありました。アメリカの高校生によるディベートがそのまま物語となるという戦争児童文学の新しい試みであり、それ以前に児童文学としてもユニークな手法がとられた作品です。
2019年度の青少年読書感想文コンクールの課題図書であり、小学館児童出版文化賞を受賞した秀逸な作品ですが、なんとも感想文が書きにくいのは、自分なりの正論を言いたくなるものの、その正論自体を疑う内省を促されるからです。原爆投下について、この物語で交わされた意見をまとめることはできるし、この議論の到達点も腑に落ちるものです。原爆投下や第二次世界大戦についての資料が豊富で、今まで知らなかった事実を知ることもできます。実際、ディベートは「その立場を演じる」シュミレーションであり、立場をチェンジしてでも行うこともできる論理ゲームですが、この物語のように個人の資質が、語ることに大きく影響します。やはり語り手である、真摯で実直な高校生たちの気持ちの揺らぎが物語としての面白さだったなというのが、自分としての感想です。絶対的な正論はなく、立場によって正義は異なっているものです。それを立場の違う人にも理解してもらえるのだという可能性を見せられたような気もしました。人間は話し合うことで、物別れにならずに最適な回答を醸成できるという期待を抱かされます。恐れずに、自分なりの正論を語っても良し、なのかも知れません。物語の最後に「我々」が立つべき場所が示唆されていたことも印象に残ります。原爆投下の非についても、戦時下におけるすべての国の罪業についても、あらためて考えさせられる作品です。ディベートによって人間は「話せばわかる」ものだと考えさせられる反面、「相手をやりこめたくなる」意識がディベートでは働いていることを感じます。この攻撃性が人間の根幹にあることを見つめ直す必要もあるのかも知れないなと思いました。フリースタイルラップのように「ディスりあうことでリスペクトする」ことは、なかなか到達できない境地であり、仲良く喧嘩する、ことの難しさを思いました。