教室のゴルディロックスゾーン

出 版 社: 小学館

著     者: こざわたまこ

発 行 年: 2023年07月

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ゴルディロックスとは英国の童話に登場する女の子の名前です。彼女が、熱すぎず、冷たすぎない、ちょうどいい温度のお粥や、心地良い椅子やベッドを選択する物語の場面から転じて、宇宙において、生命の進化が可能となる「ちょうどいい」領域のことを、ゴルディロックスゾーンと呼ぶのだそうです(初耳でした)。例えば、惑星は、恒星から遠すぎても、近すぎてもダメで、ちょうどいい距離が生命の生存を可能とする条件となります。本書はそんな言葉の象徴するものが、現代(2023年)の日本の中学校の女子同士の関係性に当てはめられています。となるとそこはおなじみの、心を切り裂く烈風が吹く教室という名の荒野で、互いに傷つけあいながら、真の関係性を模索しつつ、自立していく姿が描かれていくことになるのが常套です。概してビターになりがちな題材ですが、ストーリーは同工異曲であり、根底にある世界観や人間観が大いに物語の行方を左右します。児童文学と一般書では基点が違う部分がありますし、ベースにある価値観が、主人公たちの教室を眺めるスコープを、良い意味でも悪い意味でも伸縮させて景色を変えていきます。そんなバリエーションの物語として、本書のスタンスはどうであったか。ここには実に現代(2023年)の繊細と「偏向」を見せつけられます。集団という病理や、人が本質的に孤独であることを捉え直して、人への不信をも越えていく心の姿勢を見せてもらえたような気もします。理想を語らず、この荒野をやんわりと受け入れ生きていく。そこにはまた人間存在への肯定感があるのかも知れません。ともあれ、ちょうどいい、の許容範囲を広げない限りは、どこにも生きられる場所はないのかも知れず、それはそれで唸ってしまうのです。ここで、自分の頭に去来していたのは、SF小説の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』です。全く違う生態系で進化した異星人とファーストコンタクトした人類が、なんとか意思を通わせて、それぞれの生存の危機に力を合わせて挑む友愛の物語です。互いの生存環境があまりにも異なり、同じ場所にいることさえできない関係ですが、それでも互いに歩み寄り、力を合わせます。ちょうどいいが違う同士は、触れ合うことさえできなくても、手を取り合える。そんな理想が胸を打つ物語でした。さて、中学校の教室の温度は人間を黒焦げにするほどの灼熱であったのか。微妙な温度差でも心を壊してしまう子どもたちの閉塞した世界。ここではないどこかに逃避せず、この世界をどう生きていくのか。そこに中学生女子ライフの覚悟を見るのです。

小学五年生の頃から親しくしている、さきと依子(よりこ)。中学二年生のクラス替えではじめて別のクラスになった依子に対して、さびしさを訴え、新しいクラスではやっていけないと涙ながらに語っていた、さきでしたが、一ヶ月も経つと、すっかり疎遠になって、さきは依子に素気無く接するようになります。新しいクラスで同じ趣味の友達ができた、さき。彼女の気持ちが自分から離れていくのを感じながらも、新しい友だちができない依子はそれでもまだ、さきと親しくしていたいと思っていました。待ち合わせしたはずなのに無視され、さきの母親から、さきが遊びに行く場所を聞いて訪ねていけば、ストーカーみたいで気持ち悪いと罵られます。中学でクラスが分かれても一生友達だと言ってくれた、さきの言葉にすがりたい依子は「勝手にやさしいさきちゃんを好きになってごめんね」と謝ります。愛犬を亡くしたことを認められず、生きているように語る依子は、そんなことさえも、さきに痛烈に批判されてしまい、二人の関係は決裂します。さきの心情もまた込み入っています。いつまでも夢見がちな依子への苛立ち。虚言癖がある自分自身への不信と、嘘を信じている依子への複雑な想い。嘘で固めた関係の中で理想の自分を演じていた、さきは、友達なんて関係性を信じていないのです。それでも、さきの心にもまだ疼くものはあります。そして、もう一つの友人関係を物語は描きます。依子と同じクラスの気が強く自分勝手な女子、亜梨沙と、誰にもフラットなしっかり者で陸上競技で活躍する、ひかり。女子の間で猛威をふるい暴走する亜梨沙と対峙しながら、彼女を見守るひかり、と依子の視線が交錯します。錯綜し迷走しながら、本当は素直になりたいけれど、近寄る人たちを傷つけてしまう女子たち。迷える依子は、学校で自分の生存可能領域(ゴルディロックスゾーン)を見つけられず、「絶滅」している自分を感じています。人との関わりの中で引け目を感じてばかりの女の子が、「さみしさ」を手なづけて、少しだけ強くなるまで。苦闘しながら、それでも少しずつ、生きられる場所を広げていくのです。

性格に難がある頑なな子どもは、なんらかの病理や障がいなのではないか、という疑いを持つのが現代の視座かと思います。これを家庭環境に起因する愛情不足によるものとして、その思春期的迷走を描く物語はよくあります。虚言癖があったり、人を威圧しないではいられない、極端に気が強い、ように見えるけれど不安定な子など、トラブルメーカーたちによって翻弄されるのは、同じ教室の気弱な子どもたちであり、やがて被害者も加害者も混淆として傷つけあう坩堝が現出していきます。集団の中で変異して暴走する因子を孕んでいるのが、生命体の性なのか。身勝手で、自分を守るために人を傷つける子がいる。そんな子たちを、わかってあげなければならないなんて、思ってしまう側の子どもたちも存在します。結局は、各自の自助によって、この荒野を強く生きる決意をする帰結を迎えることになります。本来は、カウンセリングなどの大人のメンタルサポートが必要だと思いますが、国内の児童文学やYA作品でこうした問題に、加療で対処することはほぼないので、結局、適者生存のサバイバルが全ての子どもたちに課されることになります。やれやれです。で、教室のゴルディロックスゾーンの意味するところを考えさせられるわけですが、(実に好きではない言葉)「置かれた場所で咲きなさい」との兼ね合いを考えています。不登校という「可能性」も視野に入れて良い状況もあると思います。ともかく、諦めないで欲しいし、不条理を受け入れて、そこに馴れて欲しくないと思うのです。ということで、この世界を生き抜く中学生女子たちのマインドフルネスめいた現実認識が持つ、文学的な味わいは大きいのですが、もう少し、希望が欲しくなりました。それにしても男子不在の物語です。女子たちの熾烈な闘いの最中、男子は、いったい何をやっていたのか。女子たちのバトルを男子が見守りながら、ひたすらオロオロするばかりという図が『こども電車』で描かれていましたが、どこにもありそうな話です。息がつまるような女子の閉塞感に風穴を開けるには、異文化交流が必要ですが、この年頃の男子では力不足かも知れません。本書では、数学の教育実習生の男性が、いい味を出していて、彼の持ち込んだ世界観や価値観が、少なからず浸透していくあたりに希望が見出せます。世界を変えることは難しいですが、世界観は変えられます。病は気からです(誤用です)。友だち関係なんて終わるものだし、ちょうどいい距離の知り合いがいれば、友だちがいなくたって、全然、平気なものですよ。そんな価値観を教室に持ち込むとどうなるでしょうね。