きみは知らないほうがいい

出 版 社: 文研出版 

著     者: 岩瀬成子

発 行 年: 2014年10月


きみは知らないほうがいい  紹介と感想 >
「きみは知らないほうがいい」という意味深なタイトルと長谷川集平さんのインパクトのある装画、そして作者が岩瀬成子さんとなれば、手に取らないではいられない一冊かと思います。ただ、何かとてつもなく恐ろしいことが書かれているのではないかという予感があって、正直、読むのが怖い作品でした。その怖さはホラーではなく、気まずく、いたたまれないものを見せられたり、心をどこかに連れさられて、「複雑な気持ち」にさせられる、これまでの岩瀬作品で味わい続けてきたトリップ感です。で、案の定、そんな読後感でさまよっている現在ですが、言葉を手繰り寄せてまとめたいと思います。いや、まとまらないだろう。そんなもやもや感をお伝えします。主人公である小学生五年生の女の子、米利(めり)と彼女の視線の先にいる同級生の昼間君。学校という場所での小学生同士のレアな人間関係に翻弄され、嫌悪することも、諦念や達観に至ることもないまま、ただ戸惑いと疑問符のまま、子どもたちが考え続ける深い作品です。児童文学に鋭角に切り込み続ける岩瀬成子ワールド全開の一冊。読後に頭を抱え続けることも含めて、ファン冥利につきる作品です。

バスに乗って、おばあさんの家に行こうとしていた米利は、同級生の昼間君と偶然、バス停で顔を合わせます。転校生の昼間君はすこし変わった子で、自分のことを話そうとしないため、米利は昼間君のことをよく知りません。それでも米利は、昼間君が教室でフラットに意見を言ってくれたことで救われました。米利は四年生の時に、ちょっとした誤解から教室での居場所を失い、学校に行けなくなったことがあったため、昼間君の公正さに助けられたと思ったのです。まともに話が通じない教室の中で、ごく普通に正しいことを言うことは「場ちがい」であり、昼間君の存在は「変わっている」と見なされています。それでも、昼間君の正しさは米利にとってはありがたいものでした。しかし、米利が、どこに行くのかと尋ねても、昼間君はつれなく、「きみは知らないほうがいい」と言うのです。無論、米利は気になります。その後、何度かバスに乗る昼間君を見かけた米利は、後をつけ、ついに駅の地下道にある昼間君の「居場所」を見つけてしまいます。それは、教室の異端者である昼間君が、心を癒している場所でした。米利もまた、その場所に足を運ぶようになりますが、昼間君と一緒にいるところを同級生に見られて、教室でからかわれるようになります。偽悪的な方がクール、という小学生の価値観の中で「いい子ぶっている」ことは蔑視されます。昼間君はごくまともなことを言っているだけなのに、同級生たちのからかいは酷くなり、次第に追い込まれていきます。そして、ついに昼間君は学校に来なくなってしまいます。あれは、いじめだったのだろうかと米利は考えます。いじめという言葉でパッケージできない、よくわからないものについて思いをめぐらし、自分自身に起きたこともまた、疑問符のまま胸に抱えている。そんな米利の複雑な心境にとても惹き寄せられてしまう作品です。

これは、一見、いじめを主題にした物語のようにも思えます。そうなのかも知れないのだけれど、小学生主観の鋭すぎる心境小説である本書は、心の裡を解体し続け 、さらに真理を見せつけてくるのです。米利は、いつしか大人のプライドさえ意識する、敏感な自分を感じとっています。繊細なアンテナが外に向かっている子です。要は大人びた子なのです。子どもという器に大人びた自我が入り込んでしまうと、小学校生活にはついていけなくなります。子どもじみた自我と共生することは難しいのです。「毒を塗った矢が飛び交う教室」。その矢は、見ることができる子にだけ刺さります。米利も、昼間君もまた、そんな子どもです。同級生とは異種な存在である二人は、どう教室を生き抜いたらいいのか。答えがでないまま、自分たちが生き抜くための模索を続けています。昼間君が親しくしていたホームレスのクニさんや、米利のおばあちゃんは、子どもたちに世の中の真実を語っているようで、実はうわの空だし、心がどこにあるかわかりません。そんな大人に、子どもたちは翻弄されています。正確を教えてくれる大人がおらず、確かなものがない世界で、それでもわずかに、昼間君と米利の気持ちが重なることで、かすかな希望が灯ります。「いじめ」という言葉では言い表せないものが渦巻いている学校で、どうやって覚悟を決めて生き抜いたらいいのか。正解のない答えを手繰り寄せようする米利と昼間君の真摯さと、お互いに距離を保ちながら、どこか同志めく繋がりが二人に生まれることを愛おしく感じてしまう一冊です。圧巻です。