狐笛のかなた

出 版 社: 理論社

著     者: 上橋菜穂子

発 行 年: 2003年11月

狐笛のかなた  紹介と感想>

国境の水源地を巡って憎しみを募らせる、隣り合う二つの国。春名ノ国と湯来ノ国。同じ大公の配下にある両国は、表向き争うことを封じられながらも、呪法による攻防を人知れずに繰り返していました。湯来ノ国の呪術者に呪法で縛られて、使い魔として使役されている霊狐、野火は、主(あるじ)に暗殺を命じられ、その使命を果たしたものの、刀で斬られ怪我を負います。子狐の姿の野火を何も知らぬまま救ってくれたのが、偶然に出会った春名ノ国に住む娘、小夜です。野火を抱き、追手の犬から逃れる小夜が飛び込んだのは、森陰屋敷。ここで小夜と野火を匿ってくれたのが、小春丸という少年です。小夜はこの屋敷に、呪われた子が潜んでいるという噂を聞いたことがありましたが、子狐を治療し、明るく目を輝かせるこの少年に親しみを覚えます。何か事情がありこの屋敷に幽閉されている小春丸と、村の中で孤立した暮らしをしている小夜は、心を通わせ、隠れて会うようになりますが、やがて小春丸は小夜に危険が及ぶことを恐れ、もう会わない方が良いと告げます。子狐だった野火は、自分が使い魔であることに気づかないまま親切にしてくれた二人に愛着を覚え、遠くからそっと見守るようになります。この数年後、二つの国の諍いに、小夜と小春丸、そして野火が、それぞれの立場で関わり、物語は大きく動きはじめます。武士が台頭した頃の日本を舞台にしたジャパニーズファンタジーの名作。第42回、野間児童文芸賞受賞作です。

小夜には人の心の声が聞こえるという、特殊な力がありました。それは幼い頃に亡くなった母親から受け継いだものです。しかし、母親のことを詳しく知らされないまま、産婆で暮らしを立てていたおばあさんと二人、村人からも距離を置いて、山里に隠れるように暮らしていました。やがて、おばあさんが亡くなり、一人きりになってしまった十二歳の小夜は、自分の出自を知る、大朗と鈴という兄妹と出会います。春名ノ国に仕える呪術師である大朗から、記憶を封印されていた小夜に明かされた秘密は、かつての湯来ノ国との呪法による戦いで、やはり春名ノ国に仕えた呪術者であった小夜の母親が亡くなったことと、小夜にはこの世と彼の世の<あわい>に出入りできる特別な能力があるということでした。湯来ノ国の呪術者の力に対抗できる霊力のある呪術者のいない春名ノ国は劣勢で、ついには領主の総領息子もが呪われたかのような死に方をします。後継ぎを失った春名ノ国の領主は、湯来ノ国の呪法から守るため護符で霊的に防御された森陰屋敷に幽閉されていた次男の小春丸を解放し、家督を継ぐ許可を得るために大公に謁見させようとします。かつて親しくしていた小春丸の様子がどこかおかしいことを感じ取った小夜は、既に小春丸が敵の術におちていることを知ります。小春丸の命を奪うことを企む湯来ノ国は、自分たちの脅威となる力を持つ小夜が小春丸の傍にいることを知り、その命をも狙います。小夜の危機を救おうとしたのは、湯来ノ国の呪術者の使い魔である野火です。主に抗えば、自らの命を奪われるため、命じられるままに人を殺す兵器と化していた野火。しかし、自分の意思を持った野火は、恋い慕う小夜のために、己の短い命を燃やしつくそうと考えます。同じく霊狐に惹かれていく小夜もまた、人ではいられない運命を選ぶことになるのですが、そのあやうい道行もまた、強く胸を打つ切なさがあります。圧倒的な力を持つ敵の力の前に絶望しながら、それでもまだ活路を見いだそうとする小夜と野火。闘いの果てにある無常さと、人が何に望みを抱いて生きるのか、その業を見せつけられる物語です。

上橋菜穂子さんの作品でありながら「無国籍ファンタジー」ではなく、日本が舞台として設定された珍しい物語です(あとは『月の森に、カミよ眠れ』ぐらいでしょうか)。土着的な信仰や呪いなどのスピリチュアルや、この世とあの世を結ぶ境界にある世界など、その世界観は他の作品とも近しいところですが、登場人物たちの名前も、地名も、なによりもその文化風俗が日本的な風情を醸しています。花鳥風月の美しさ。具体的な時代は明示されませんが、武士が台頭しているところから、平安中期以降から鎌倉、室町あたりか。霊力を持った狐と、それを操る狐笛や、物語を取り巻く自然の花々や月影のイメージは色濃く日本の美を意識させるものです。一方で、大公の配下にある両家が諍いを続けるなど、キャピレットとモンタギューの憎しみの連鎖を思わせようなところもあり、家名を賭けて、意地を張り続ける愚かしさは万国共通のストーリーでしょうか。だからこそ、面子や利権や欲得などの傍らで、互いを思いやり交わされる愛情こそが、真を穿つ尊いものであることを見せつけられます。人と霊狐が愛情で結ばれるこの物語は、異種婚姻譚というよりは、殺人マシンであった傭兵が人間としての愛情に目覚め、自己犠牲をも厭わず献身する常套のロマンスとなっています。小夜という娘の純粋さと、その娘を守りたいがために、主の命令を裏切れば自分の命がないことを知りつつ、死地に赴いてしまう野火。ありがちなロマンではあるのですが、やはり胸を焦がされますね。読みながら、物語の展開の過酷さにハッピーエンドは無理だろうなと半ば諦めながらも、なんとか小夜と野火にこの窮地を生き抜いて欲しいと願いたくなりました。そして、意外な結末が待っている。幸せの形はひとつではなく、新しい世界が広がっていくところに驚きがあり、歓びを得られる。そんな読後感を是非、味わってもらいたいと思います。