出 版 社: KADOKAWA 著 者: 辻村深月 発 行 年: 2023年06月 |
< この夏の星を見る 紹介と感想>
2023年は『遠い空の下、僕らはおそるおそる声を出す』が2月に、『スクランブル交差点』が4月に、そして本書が6月に刊行されています。共通するのは、コロナ禍が始まった2020年の高校生を描き、彼らが、社会の分断を越えて、遠隔地の仲間たちとオンラインネットワークで交流を深めていく物語であるということです。コロナ禍の子どもたちを描く物語も段階を経て進化を続けてきましたが、2023年前半のモードは、こちらの遠隔地ネットワーク型です。前者二作がアメリカやイタリアなど国を越えて繋がるのに比べると、本書は茨城県を中心に、東京(渋谷)、長崎(五島列島)と比較的距離が近い(まあ、日本スケールでは遠いですが)。一方で本書は前者二作のように、リアルな知り合いを介して繋がった関係ではなく、あらかじめ知らない同士が、広義の天体観測という同好のよしみで縁を結ばれたあたりにロマンがあります。コロナによって活動が制限されたのは、運動部だけではなく、文化部もまた同じです。ただでさえマイナーなクラブ活動である天文部は新入部員も獲得できないし、積極的にイベントを行うこともできません。何よりも当初のコロナ禍は、多くの死者を出した感染症としても恐ろしいものでしたが、行動制限によって経済的な打撃を受けた大人も多く、感染者に対する(自粛や自制をしない人間に対する)魔女狩りのような制裁的な差別もあって、風評で傷つけられる人も多かった暗い時代でした。思春期はただでさえ戸惑うところが多いわけですが、そんな世相では、より迷走します。本書は、コロナ禍によってもたらされた歓びもあった、という福音です。それは苦い果実です。実際、コロナ禍がなければ、もっと世界は輝いていたかもしれない。それでも、失われたものよりも得られたものを慈しむことで、限られた人生の時間を大切にすることができるのだという深い感慨を得られる物語です。
茨城県の砂浦第三高校に通う二年生の女子、亜紗(あさ)は、楽しみにしている天文部の夏合宿が実施できるかどうか不安に思っていました。コロナ禍の緊急事態宣言があけて、学校は再開されたものの、運動部も文化部も活動は制限され、大会やコンクールは中止になっています。不要不急なことは自粛しなければならない。わかってはいるものの、部活動も出来ず、友だちと会うこともできない状況に亜沙は不満を募らせていました。亜紗が砂浦第三高校を志望したのは、この学校の天文部に入りたかったからです。顧問の綿引先生と少なからず縁があった亜紗は、好きなことを夢中になって追求する綿引先生の姿勢に憧れていました。天体観測のために望遠鏡づくりから始めるのが綿引先生のスタイルなのです。念願かなって、この学校の天文部員になった亜紗でしたが、このコロナ禍では充分な活動ができません。綿引先生は、こうした状況でも天文部は何をしたいのか考えよと言います。先輩たちが積み上げてきた望遠鏡作りの伝統を引き継ぐ、その活動の中核を担う二年生であるのに何もできない悔しさ。そんな停滞のさなか、天文部に東京の渋谷区の中学生から一通のメールが届きます。砂浦第三高校が、他の学校と一緒に行っている「スターキャッチコンテスト」について教えて欲しいというのです。メールのやり取りはオンライン会議に発展します。望遠鏡で捉えた星の数を競うコンテストを、参加校が同じスペックの望遠鏡を作るところから始めるという念の入った企画に、中学生たちは圧倒されます。彼らが興味を引かれていることを感じた亜紗は、一緒の場所に集まるコンテストはできないけれど、リモートで同時に同じ空を見上げて星をつかまえないかと提案します。もちろん、望遠鏡を作るところから始めるのです。亜紗たちは、この企画に、中止になった修学旅行の行先だった長崎の高校も誘ってみようと思いたちます。渋谷区の中学一年生、学年で唯一の男子生徒として複雑な気持ちで学校生活を送る真宙(まひろ)の視点や、長崎の五島列島の高校三年生の女子で、家業が都会からの旅行者が泊まる旅館であるために肩身の狭い思いをしている円華(まどか)の視点から、物語は語られていきます。彼らとその仲間たちが、それぞれの心の事情を抱えながら、この困難な時間をどう生き、ステップを上がっていったのか。距離をこえて、学年も関係なく、同じことに興味を抱く仲間として連帯していく心の交歓が爽やかに描かれていく物語です。
科学的探究心と物作りへの情熱。自分が好きなもの、進みたい道を、妥協や計算や見栄でなく、心が赴くままに選択する。人として正しいあり方であり、生き方の理想だと思います。現実は、効利的な価値観からの横槍が入ったりと、なかなか理想は貫徹できず、自分のスケールの小ささに悩んだり、社会の不合理に晒されたりするものです。コロナ禍が教えてくれたことのひとつは、人の命のあっけなさです。平穏無事を人生の前提にできなくなった時、人は多少、チャレンジングになれるものかもしれません。それもまたコロナ禍の功罪です。ここから先どうなるかわからない。踏み出した一歩がどこに行き着くかは未知数です。それでも本書の中高生たちは、結ばれた人たちとの繋がりや、それぞれの生き方に刺激を受けて、自分の道を選択していきます。かつて人は天体観測によって、海上でも進むべき方角を知り、船の操舵を行いました。星空を見上げるという行為には、そうした象徴性もあります。ファンタジー要素もミステリー要素もなく、ケレン味のない物語ですが、実直で真面目で、そして豊かな心映えで生きる人たちが、好きなことに心を躍らせ、進むべきを進んでいく。そんな幸福な結末を見守っているだけで嬉しくなるのです。なによりも良かったのは、同じニッチな興味を共有できる仲間に出会えた時の興奮です。天体観測だけではなく、地学や物理学、総じて科学への大いなるロマンが語られていきます。ネットの普及で同好の士が集いやすくなったとはいえ、それはそこそこ「できあがった人たち」のお話です。興味を持ちはじめた段階での歩み寄りは、やはりドキドキ、ワクワクするものでしょう。お互いを気遣いあい、リスペクトしあう仲間同士の関係性も理想的ですし、先生たちも面目や効利や保身に走る大人ではなく、この豊かな世界を子どもたちに見せようとする姿勢も素敵です。大きな陰が描かれないことは、やや物足りないところがありますが、コロナ禍という背景自体が暗雲であるとすれば、自ずとバランスは取れていたのか。心地良い読後感を得られる物語です。ところで、渋谷と五島という二つの文字が並ぶと、自分には、渋谷駅前にあった、今はなき東急文化会館の五島プラネタリウムが思い出されます。渋谷の隣の駅が最寄り駅で、高校も渋谷だったので地元なのです(首都高直下の空気の悪い場所です)。子どもの頃、亡き母親に連れて行ってもらった思い出もあり、自分にとって満天の星空といえば、あの渋谷のプラネタリウムでした。でも、渋谷でも本物の星空が見えていたのです。見えていても、見ていないものは多いものですね。 科学的探究心と物作りへの情熱。自分が好きなもの、進みたい道を、妥協や計算や見栄でなく、心が赴くままに選択する。人として正しいあり方であり、生き方の理想だと思います。現実は、効利的な価値観からの横槍が入ったりと、なかなか理想は貫徹できず、自分のスケールの小ささに悩んだり、社会の不合理に晒されたりするものです。コロナ禍が教えてくれたことのひとつは、人の命のあっけなさです。平穏無事を人生の前提にできなくなった時、人は多少、チャレンジングになれるものかもしれません。それもまたコロナ禍の功罪です。ここから先どうなるかわからない。踏み出した一歩がどこに行き着くかは未知数です。それでも本書の中高生たちは、結ばれた人たちとの繋がりや、それぞれの生き方に刺激を受けて、自分の道を選択していきます。かつて人は天体観測によって、海上でも進むべき方角を知り、船の操舵を行いました。星空を見上げるという行為には、そうした象徴性もあります。ファンタジー要素もミステリー要素もなく、ケレン味のない物語ですが、実直で真面目で、そして豊かな心映えで生きる人たちが、好きなことに心を躍らせ、進むべきを進んでいく。そんな幸福な結末を見守っているだけで嬉しくなるのです。なによりも良かったのは、同じニッチな興味を共有できる仲間に出会えた時の興奮です。天体観測だけではなく、地学や物理学、総じて科学への大いなるロマンが語られていきます。ネットの普及で同好の士が集いやすくなったとはいえ、それはそこそこ「できあがった人たち」のお話です。興味を持ちはじめた段階での歩み寄りは、やはりドキドキ、ワクワクするものでしょう。お互いを気遣いあい、リスペクトしあう仲間同士の関係性も理想的ですし、先生たちも面目や効利や保身に走る大人ではなく、この豊かな世界を子どもたちに見せようとする姿勢も素敵です。大きな陰が描かれないことは、やや物足りないところがありますが、コロナ禍という背景自体が暗雲であるとすれば、自ずとバランスは取れていたのか。心地良い読後感を得られる物語です。ところで、渋谷と五島という二つの文字が並ぶと、自分には、渋谷駅前にあった、今はなき東急文化会館の五島プラネタリウムが思い出されます。渋谷の隣の駅が最寄り駅で、高校も渋谷だったので地元なのです(首都高直下の空気の悪い場所です)。子どもの頃、亡き母親に連れて行ってもらった思い出もあり、自分にとって満天の星空といえば、あの渋谷のプラネタリウムでした。でも、渋谷でも本物の星空が見えていたのです。見えていても、見ていないものは多いものですね。