キノトリ/カナイ

流され者のラジオ

出 版 社: 静山社

著     者: 長谷川まりる

発 行 年: 2023年07月

キノトリ/カナイ  紹介と感想>

この物語を読みながら、どこか「作中物語」であるかのような錯覚を覚えていました。いや、そうあって欲しいという願望です。この物語世界の外側に、この物語を書いている作者(登場人物)が存在していて、その人物のリアルライフがなんらかの形で反映された入れ子構造の物語であったのならと思いました。それは、この物語の寓意がはっきりとせず、物語の中で完結しきらない余白が多いと感じたからです。心の闇を垣間見せる物語です。見えざる作者(この世界の摂理)とこの物語との和解を、もうひとつ「上の階層の物語」で見せて欲しかったのです。悪くいえば消化不良感のある、良く言えば余韻のある物語です。その「作者」こそが救われて欲しいと思うのは、ここに描かれたものは希望ではなく、憤懣ではないのか、という疑念があるからです。ファンタジー世界に仮託して何かを言おうとしている、その真意を知りたくなるのです。そして、それが物語の中で昇華できたのならと思ったのです。本書は児童文学ファンタジーというよりは、デストピアSF寄りの物語のように見えると思います。サイバーパンク風味もあります。デストピアあるある、である、閉鎖空間の中で社会階層によって居住地域が制限されている格差社会の物語です(近年だと、ヒュー・ハウイーの『ウール』シリーズのような魅力的な物語を思い出します。バラックが要塞化していくのは『移動都市』的で面白かったですね)。本書は本格的なSF作品のように透徹された世界観が構築されているわけではありませんが、人と人との関係性の設定に特色があり、そこが本書を読み解く鍵になるところかと思います。人の心の見えない棘を可視化することに定評のある長谷川まりるさんの、これもまた「児童文学」なのだと思います。そんな観点で、この物語の鑑賞に挑むとき、このモヤモヤとした作者の企みに異満ちた世界物語の核心に近づけるような気がします。

キノトリ区。大陸から海を隔てて独立した海洋の街。この地域は、元はといえば、大陸の流刑地であった場所です。そこには犯罪者もいれば、冤罪で流刑になった人たちもいました。もはや新規の流刑者もいないまま時は流れ、その子孫に世代は交代し、独自の文化圏が発展していました。コンテナが多層に積み上げられ続け要塞化し、摩天楼にようにそびえ立つ街。海面ギリギリの下層地域と遥か上層地域では、住む人間の階層が違う格差社会が形成されています。主人公のキューは、このキノトリ区で荷物の配送を請け負う公務員です。公務員といっても下層であり、コンテナの最上層に住む上級公務員である「警団」とは大きな隔たりがあります。少しでも、上の階層に住めるになりたい。そんな大望を抱くキューですが、目下の仕事は配送であり、しかも、上手くごまかして荷物をせしめることが当たり前といった意識の低さ。ある時、配達する荷物の中身を物色しようとして、包紙を戻すのを間違えて、まったく違った宛先に荷物を届けてしまうことになります。リフト乗り場の受付をしている盲目の老女、タマちゃんに間違いを指摘され、本来、届くはずだった旧式のラジオを探すことになったキューは、キノトリ区の上から下まで、シャッフルされてしまった荷物の行方を追うことになります。ラジオをめぐる、かつてのキノトリ区の残像がインサートされ、この町に暮らす人たちの群像と、ラジオを探すキューの現在とが混淆し、やがて物語は核心へと近づいていきます。さて一方で、ここに描かれる寓意に、俄に胸がざわつくあたりが、「児童文学」ファンタジーの真骨頂です。

現代(2023年)のセンシビリティが表出された作品です。物語の舞台である架空の時間域の感覚ではないのです。ふと、この物語の作者という登場人物が存在して、現代日本で普通に会社員生活を送っている若い女性としての物語が上層にあったのなら、などと考えたくなったのは、この特殊な世界に潜められた登場人物たちの等身大の苦悩が、現在の写し絵のように見えるからです。そのデリカシーが実に繊細であり、ファミニズム、とはあえて言わずもがなで、人として胸に留めるべき点が多いのです。上記のあらすじはキューの物語をまとめたものですが、重要なのは、不本意ながらラジオで人気歌手を続けているメリーと、事故で片脚を失い義足をあつらえようとしているサクラという、二人の若い女性のそれぞれの物語です。キノトリ区では、人と人が非常にフレンドリーで「家族のように」に親しく接することがあたりまえです。そこには、自分たちが流され者のダメな人間だという自己肯定感の低さが通底しています。このコミュニティは、互いに親身なフリをしながら心地よい相手と一緒にいることで、自分の弱さを容認し、責任を回避する、いびつな関係性を作り出しています。そこには、自ずと犠牲になる存在が生まれます。二人の若い女性は、おためごかしで、自分をわかっているかのような親しげで優越的な態度をとる男性の傲慢さに我慢できず、自分が考える自由を行使しようとします。キノトリ区自体が、心の弱い人間が集まった病んだ「家族カプセル」であり、家族の弱者である若い女性が翻す反旗が痛烈です。これは、非常にセンシティブな心の問題で、このファンタジーワールドとそぐわないように思えるのですが、キノトリ区を病んだ家族と捉えると、この女性たちの反旗と、彼女たちが選んでいく生き方こそが主題のように思えてくるはずです。家族や恋人などの人間関係からの抑圧に生きづらさを感じている若い女性たちの魂が解放される物語とすれば、救われるべきは、読者か作者か(そこで冒頭のような感想になるのです)。自分なりにはそう鑑賞した物語だったのですが、読者それぞれに抱くイメージが違うのだろうなと思います。意見を交換しあう、読者会には最適な一冊です。