出 版 社: 徳間書店 著 者: バーバラ・ワースバ 翻 訳 者: 斉藤健一 発 行 年: 1994年11月 |
< クレージー・バニラ 紹介と感想 >
傷つきやすい人、あるいは、現在進行形で傷ついている人であるからといって、他の人の気持ちに敏感とは限らないもの。デリケートさとデリカシーは別の次元にあって、世の中の不幸をひとりで背負ったような気持ちになっている渦中には、なかなか周囲の人たちの心中を慮る余裕はないものと思うのです。所謂、イッパイな状態。そんなときに、自分と近い心性を持った人の心の深さを知ることで、自分の悩みが小さく思えたり、ふいに目が開かれて、見えてくる世界もあるものです。その瞬間の心のおののきこそ、ヤングアダルト作品が描きうる美しい結晶なのかも知れません。はじめて興味を共有できる人を見つけたとき、誰かと心を通わせることができた歓びに、手放しに興奮するのは、多少、危なっかしさを感じるものですが、そんな瞬間があってこその人生だと思えます。打ちのめされた心が慰められるとするなら、同じように喜び、苦しんでいる、寄り添える心の暖かさを感じられたときではないのでしょうか。さて、本作品の主人公もまた、十四歳にして、人生の隘路に陥っています。学校に友だちのいない、両親とも気持ちがすれ違いがちな少年、タイラー。唯一、彼のことを理解してくれていた仲の良い兄が、同性愛者であることが発覚。しかも、ビンセントなんて名前のイタリア男にすっかり夢中で、一緒に住む、なんて話を聞かされたら、許容量を越えたショックではあろうと想像に難くないところです。鳥の写真を撮るだけが楽しみで、話ができる親しい人といったら町の老人たちしかいない。学校では、誰も相手にしてくれない。そんなタイラー。裕福な家庭に育ってはいるけれど、投資家のお父さんは、徹底的な実務家で、動物写真家になりたいなんていう気持ちなど、まったく理解してもらえない。お母さんは、アルコール依存症の傾向が顕著になりつつある。そこに兄の同性愛騒動で、すっかり家庭には微妙な空気が流れるようになってしまいました。どこにも身の置き場がなくなってしまったタイラー。自分に残されているのは、鳥の写真を撮ることだけ、そのためにはもう少しいい機材が欲しい。賞金を目当てに、アイスクリームの名前公募に出した自信作「クレージー・バニラ」は、やはり落選し、すっかり落ち込んでしまったところで、出会ったのが、同じく鳥の写真を撮っていたミッツィという少女。ボーイッシュで、口の悪い、ひとつ年上の彼女との出会いが、タイラーのすさんだ心に、暖かい陽光を届けていくのです。
「きみが悩んでるのは兄さんが同性愛だからじゃないのね。兄さんをとられてさびしいのよ」、ミッツィはずばりとタイラーの心を言い当てます。十四歳のタイラーと、十五歳のミッツィ。この年頃は、多分に女の子の方が精神的に成熟しているものですが、加えて、彼女の育ち方は一筋縄ではなく、タイラーより数段、大人なのです。裕福なタイラーとは違い、地元の庶民の学校に通っているミッツィ。お父さんは小さな頃に出ていってしまって、お母さんとの貧しい二人暮し。とはいえ、いつもお母さんの側には、新しい男がいる、それもだいたい、いかがわしい感じの。ちょっとだらしのないお母さんとの暮らしの中で、決して、大切にされて育ったわけではないミッツィの瞳に写っているものが、タイラーにもだんだんと見えはじめます。タイラーと同じく動物写真家を目指しているミッツィですが、その将来への覚悟と意気込みはレベルが違いました。はじめは憎まれ口を叩きながらも、だんだんとうちとけていく二人。同性の友だちもいなかったのに、突然、異性の友だちができたことに戸惑いながら、ミッツィが抱えている世界を一緒に見ようとするタイラー。考えの甘いお坊ちゃん育ちであるタイラーを、ミッツイは優しくたしなめながら、彼が知らない世界の広さを教えてくれます。やがて母親について引っ越すことになったミッツイに、タイラーは「好き」と告げることもできないまま別れることになります。本当に大切なことは言葉できないまま、心の奥にしまわれてしまうものなのかも知れない。二度と会うことのないかも知れない人。けれども、どこかで暮らしている敬愛すべき彼女に思いをはせながら、タイラーは、あの十四歳の、はじめて人に心を寄り添わせた瞬間を大切に思い出すのです。きっと、いつまでも、いつまでも。そんな、たゆとう余韻を残してくれる素敵な物語です。
刊行当初に読んだ以来なので、10年以上の時間を経ての再読となります。「はじめて興味が一緒の人と出会ったときの、心を奮わせる瞬間のときめき」など、遥か遠くにおいてきてしまったような年齢になりましたが、だからこそ、あの瞬間の持つ意味を反芻できるのかも知れません。この少年と少女の物語は、恋愛未満の関係に終わるがゆえに、心を近づけていく時間の、その震えるような、純粋な気持がしみとおってきます。今回、読み返してきた中で、一番、気になったのは、タイラーのお父さんの心情でした。自分の価値観に沿わない子どもたちを、無視するでもなく、ちゃんと叱り、それなりに歩み寄ろうと声をかけたりするものの、お父さんは実務的な話題しか持っていない。お父さんなりに子どもたちの幸せを考えているのだけれど、子どもたちは、自分たちが「理解されないこと」で、目がくらんでしまっているような気もするのです。自分のことで精一杯な年齢の時には、なかなか親の気持ちに近づくことはできない。お父さんもまた、不器用な愛情表現しかできず、足りない言葉で、心をもてあましていたのかも知れないですね。お父さん、お母さん、お兄さん、それぞれの愛情を、成長したタイラーはどのように受け止められるようなったのか。そして、自分から愛せるようになっていったのでしょうか。この物語の向こうに、満ち足りた時間が広がっていることを想像しながら、いましばらく余韻に浸りたいと思います。沢山の余白を残した、いい作品なのです。そういえば「兄が突然、同性愛の恋人を連れてくる」という物語をいくつか読んだ記憶がありますが、アメリカではありがちな話なのか。現実的には相当、びっくりするでしょうね。