赤毛のアン

Anne of Green Gables.

出 版 社: 集英社 

著     者: ルーシー・モード・モンゴメリ

翻 訳 者: 松本侑子

発 行 年: 2000年05月


赤毛のアン  紹介と感想 >
激しく痛い人。それがアン・シャーリーです。この赤毛の十一歳の少女は、孤児院出身のかなりの変わり者。なんでもない田園風景を「歓びの白い路」だの「恋人たちの小径」だのと勝手に名前をつけて呼んでみたり、自分の名前を呼ぶときはアン(Ann)のあとに頭の中でeを付けてアン(Anne)のつもりで呼んでくれとか、植物にいきなり「ボニー」だの「雪の女王様」だのと名前をつけてみたり、朝からハイテンションで『こんな美しい朝には、世界中を愛している、っていう気にならない?』などと本気で言いだす天然の人。なるべくなら近寄りたくない、手に負えない感じの人です。後の児童文学で言えば「スター☆ガール」並みの暴走少女なのですが、二十世紀初頭の牧歌的田園風景の中では、まだ許容範囲であったのか、遠巻きにされて侮蔑の視線を送られることもなく、地域コミュニティに溶け込むことができたラッキーガールです。年をとった二人暮らしのマシューとマリラのカスバート兄妹は、農作業を手伝わせるために、孤児院から男の子を貰おうとしていました。ところが、マシューが迎えに行った駅に降り立ったのは、どうした手違いか、そばかすだらけの赤毛のやせっぽちな女の子。しかも彼女は「なみなみならぬ魂の持ち主」だったのです。この女の子、しゃべる、しゃべる、しゃべり倒す。しかもほとんど妄想めいた戯言ばかり。果たして、女の子が死ぬほど苦手だったはずのマシューは、この子をいたく気に入ってしまい、内気な彼には珍しく、妹のマリラに彼女を引きとることを提案してしまうのです。さて、兄と違って、情にほだされない気丈なマリラは冷静に考えます。アンは親の縁にめぐまれず、これまで誰にもかえりみられないまま、愛情の足りない生活を送ってきている。はじめて自分の家を見つけて喜んでいるのを追い返すのは、さすがにしのびない。おしゃべりだけれど、注意すればなおるし、気だても良いし、躾けやすいのではないか。ちゃんとした少女に育てられる可能性を目論んで、マリラは決断します。あとのことは、神のみぞ知ると思い切り、「初老の独り者の男」と「いい年をした独身女」のカスバート兄妹はアンを養女に迎えることにしました。さて、ここから喜びに満ちた、グリーンゲイブルズのアンの輝ける日々が始まり、そして、カスバート兄妹の手探りの子育ての日々も始まるのです。

以前、同僚と『赤毛のアン』について話をしていた際に(男子会社員だって欧米家庭小説について話をするものなのです)、アンは登場人物の誰の視点から読むべきか、という問題提起をされたことが印象に残っています。僕は十代で読んだ時でさえマシュー視点という、当時から既にアンには距離を置いていたオヤジモードだったのですが、今回、読んでみて感じたのは、ウェットでも冷徹でもない、非常にフラットな魂の持ち主である大人としてのマリラへの共感と、アンに対する距離感でした。夫婦ならぬ兄妹二人の教育上の役割分担なども、あらためて注目できた点で、なるほど、誰に視点を置くかによって随分と読み方は違ってくるし、そういう読み方ができるのは、それぞれの人物が描けているからなんですね。また今回は、この物語世界がアンという無茶苦茶な少女を許容する、アヴォンリーの「善良なる村人」たちの好意によって成り立っていることを、より感じさせられた読書でした。アンはちょっと悪ノリするタイプで、その頭の回転の速さと言葉まわしで、大人たちを煙に巻く力を持っています。ナチュラルに邪気がないので、逆に始末におけないトラブルメーカーでもある。アンが手放しの自由さで周囲を翻弄するのもどうにも煩わしいし、そのくせ、時折、おセンチ(死語)やコンプレックスを持ちだしてくるのも癪に障る。時代と場所によっては総スカン(死語)をくらいかねない勘違いキャラクターなのかも知れないのです。大仰に喜んだり、悲しんだり、喜怒哀楽フルオープンで、どこにも余白というものがない。そんなアンだけれど、この世界では愛されている。愛され問題児。そして、アンの情動が落ち着いてしまった『アンの青春』以降は、どうも作品としては物足りなくなってしまうのが不思議なところで、やっぱり、このアンの世界は、コントロール不能な破天荒なアンがいて、そんな彼女のような存在でさえ容認する「愛情に満ちた人々」との関係性があるからこそ魅力的なんだと思ったわけです。ということで、やっぱりアンが好き、になってしまうのか。いや、「みんながアンを好き」でいてくれる、この空間を楽しんでいるのかも知れません。

問題児の方が可愛いという不思議なメンタリティがあります。おしつけがましい規律を蹴っ飛ばして、自分の好きなものを好き、と言える子どもたちの魅力。ところが、時代の変遷の中で児童文学の主人公の座は問題児(もしくは異端児や野生児)ではなく、彼らを遠巻きに見守りつつ、翻弄されている側の臆病な子どもたちにとって変わられるようになってきました。クラスのアンチヒーローから等身大のクラスメートへの共感の移動。これについては「児童文学における問題児の百年」に詳しいのですが(嘘です。そんな本はありません)、ナチュラルボーンで空気を読まない問題児が、コミュニティの中で「生かされていた」特別待遇の時代は終わり、平凡な子が抱える生き難さの微妙さこそがドラマチックな時代に突入したようです。まさに王様から市民へ「運命の悲劇」の主人公が変遷していったかのように。二十世紀後半以降の作品でならば、アンの「腹心の友」、ダイアナこそが、主人公にふさわしいのかも知れません。クラシックな「高潔な魂」を持った問題児の、その高潔さも、現代社会の文脈の中では、ウザいものと思われる可能性もあります。いや問題は、それを受容しない社会やコミュニティにこそあるのかな。

※この文章を書いた時は松本侑子さんの訳本を読みました。