出 版 社: 小峰書店 著 者: にしがきようこ 発 行 年: 2010年07月 |
< ピアチェーレ 紹介と感想>
中学生の嘉穂が周囲に遠慮しながら生きているのは、やはり肩身が狭いからです。祖父母と叔母が暮らす家に、弟と二人で、やっかいになっている立場だという自覚が、嘉穂にはあります。母親は幼い頃に亡くなっていますが、父親はいます。一緒に暮らしていないのは、父親には別の家庭があるからです。東京を離れて転勤した先で再婚した奥さんがいて、年の離れた妹が二人いる。とはいえ、不仲というわけではなく、父親と一緒にコンサートなどにでかけることもあります。まだ十三歳なのに、自分の「立場をわきまえて」しまっている嘉穂は、祖父や叔母にも気をつかい、また、父親と新しい家族に対しても気をつかっています。祖父母に奔放にわがままを言う弟に手を焼きながら、そんなふうに無遠慮にはなれない自分自身を省みる嘉穂。ここにある心のバリアが彼女を自分の殻に閉じ込めています。それでも学校では普通に過ごしていて、ひとみという仲の良い友人もいます。学校でも控え目で、自分のことを口にしない嘉穂は、ひとみに対しても気をつかっています。行動力はあるけれど、その分、気ままなひとみの態度に、その気持ちを斟酌しながら、適度な距離感で接しているのが嘉穂のスタンス。なので、ひとみに誘われて、音楽教室に見学に行くことになったのも断る理由がなかったらで、いえ、それだけではない想いも彼女にあったのかも知れません。空き地のグラウンドで思う存分、声を出すと、風が身体を吹き抜けていく、あの感触。お父さんと一緒に行ったオペラで聞いた歌声も、深く嘉穂の心に刻まれていました。まるで友だちのオーディションについていったら自分がスカウトされた、というアイドル誕生物語の常套のように、試しにと歌わされた嘉穂は、その才能を見出されます。後日、音楽教室の先生からもらった手紙には『戦う覚悟はありますか?』という一行だけが記されていました。眠っていた気持ちが呼び覚まされる、ドキドキするような物語がここに展開していきます。第8回長編児童文学新人賞受賞作であり、第21回椋鳩十児童文学賞も受賞した秀逸な作品。見事な表現に息を飲む、音楽に心を解放されていく物語です。
音楽教室の先生に声をかけられた、とはいえ、そう簡単に自分の殻を破れるものでもありません。嘉穂のような引っ込み思案の子を本気にさせるには、誰かが焚きつける必要があるのです。いやむしろ挑発するべきか。その役割を担うのが、同級生の少年、後藤です。運動部に所属するこのぶっきらぼうな態度のヤツを、どうして、ひとみが好きになってしまったのか嘉穂には理解できません。音楽教室に行きたいと、ひとみが言い出したのだって、そこが後藤のお母さんが指導している教室だったからです。嘉穂は以前に自分が空き地で声を出しているところを偶然、後藤に見られていたことを思い出します。どうやら嘉穂が音楽教室で歌うことになったのも、彼の差し金があったようなのです。それなのに、後藤の態度ときたら、嘉穂を見下し、ヘタ呼ばわりする。これにカッとした嘉穂がまんまと乗せられて、人前で歌うことになってしまうという展開もニヤリとしてしまうところです。学校の音楽の先生にも嘉穂の歌声は届くところとなり、合唱コンクールの幕間で独唱することになった嘉穂。そのピアノ伴奏を後藤が引き受けたということも驚きですが、彼の音楽に対する知見やセンスにもまた、嘉穂は目を見張ります。伴奏者と歌い手として言葉を交わさないまま、それでも音楽を通じて対話を続ける二人。音楽家の両親を持ちながら、自分は音楽の道を目指そうとはしない後藤の心の裡を、その道を進むことの覚悟の重さとともに知る嘉穂。後藤のことを好きな、ひとみを通り越して、どこか心で繋がっているような、その面映ゆく、危うい関係性も読みどころです。憎まれ口を叩いて嘉穂を挑発しながら、その伴奏で嘉穂の良さを引き出し、一緒に音楽を創っていく後藤。彼の葛藤や寡黙な言葉の裏にあるものもまた垣間見えてきます。音楽によって、自分の殻を壊していく嘉穂の心の震えが伝わってくる、清新な物語が結ばれていきます。クライマックスは無論、合唱コンクールでの独唱場面です。やがて彼女に送られる鳴り止まない拍手を予見させられる終わり方もまた見事。ブラーヴォ!の賛辞を惜しみなく与えたくなる物語の終幕まで、音楽によって自由な自分の世界を見つけ出した嘉穂の歓びを満喫できます。
少ない登場人物と狭い半径の物語ですが、良い意味で、実に良くまとまった小品という印象を受けます。その優美な表現にも見惚れてしまうところは多く、研ぎ澄まされた文章には作者の丹精を見ます。音楽の歓びを描いた児童文学作品は多く、楽器を自分自身のように扱うことや、自分自身を楽器のように扱うこと、いずれの場合もその身体と分身に音楽を響かせて、人と心を共鳴させていくことが描かれていきます。音楽が気持ちを直接的に伝え、聴く人の心を動かす力があることが、YA的題材としてスウィングするのでしょうね。この物語のタイトル「ピアチェーレ」は音楽用語で、演奏者が自由に演奏することや、歓びや楽しむことを表しているそうです。まさにその通りの物語に感嘆します。また、この物語には、主人公の嘉穂だけではなく、他の個性的な登場人物たちの葛藤もハーモニーとして加わり、輻輳していく重奏感があります。何よりも後藤がクールで、嘉穂がまんまと乗せてしまうあたりも小気味良ければ、同級生の女子たちとは違うところに視線が向いているところも小憎らしいのです。スポーツマンでピアノも弾く、それでいてどこか失意を抱えているなんて、カッコ良すぎます。そんな後藤の伴奏に支えられながら、誰にも心配をかけないよう、もう泣かないと頑なな決意を抱いていた嘉穂の心が解けていく物語の終わりに歌われる曲が、実に響いてきます。まさに心に風が吹き抜けるような作品です。