The One Memory of Flora Banks.
出 版 社: 小学館 著 者: エミリー・バー 翻 訳 者: 三辺律子 発 行 年: 2018年02月 |
< フローラ 紹介と感想 >
イングランド南西部コーンウォールの町、ペンザンス。そこで暮らす十七歳の少女、フローラ。彼女は自分の腕に書かれたメモを参照しながら、いつも行動しています。わずか数時間ですべてを忘れてしまう記憶障害のために、十歳以降のことは覚えていられないからです。頭が混乱した時に読むようにと母親から与えられたノートには「フローラの物語」として、これまでの経緯が書かれています。十一歳の時に受けた脳腫瘍の除去手術の影響で、前向性健忘症という、数時間しか記憶を維持できない状態であること。それでもノートには「問題ない」から安心していて良いのだと書かれています。手術前の十歳までの記憶しかないものの、四歳からの友人であるペイジがいつも側にいてサポートしてくれているし、この町、ペンザンスを出なければ大丈夫だというのです。自分が記憶障害であることさえ忘れてしまうフローラは、腕に書かれたメモを見ながら状況を確認し、後で困らないようにメモを書き加えていきます。過酷な生き方をしている彼女の腕に記された「フローラ、勇気を持って」の文字は、彼女をいつも励ましてくれていました。もっとも、いつも、その文字を始めて見たと思っているのがフローラなのです。そんな彼女が「勇気を持って」、たった一人でペンザンスを出て、北極圏へと旅立とうとしています。どうしてそんなことに。記憶を失ってしまう主人公が、残されていた文字を頼りに行動するものの、事実と事実以外の記録が混淆し、何が真実なのか、フェイクなのか、読者さえも欺くミステリアスな物語が展開していきます。さあ、どうなってしまうのか。ともかくページをめくりたくなる物語なのですよ。
「夜のビーチで男の子とキスをした」。すべてを忘れてしまうはずのフローラが、翌日になっても覚えていたことです。キスした相手はドレイク。ペンザンスに一時滞在していた彼が北極圏に帰る、さよならパーティーの夜のことです。親友のペイジの彼氏でもあるドレイクは、二歳歳上の素敵な男性でした。フローラが書き残していたメモでこの事実を知ったペイジは怒り、絶交を言い渡します。困ったことになりましたが、恋する気持ちに有頂天になってしまったフローラは、自分が「覚えている」ことに慄きながら、メールでドレイクと言葉を交わし、気持ちを募らせていきます。特別な存在であるドレイクに再び会えれば、自分の記憶障害も治るかもしれない。折しも、フランスにいる兄のジェイコブが瀕死の状態となっており、両親はフローラを残し、出かけていました。ドレイクを驚かせてやろうという気持ちで、北極圏に旅立つフローラ。当然のことながら、怒っているペイジのサポートはないままの、危なっかしいひとり旅です。ここから遭遇する数々のトラブルをどうやって彼女は乗り越えていくのか。なにせ同じ人に何度会っても、初対面だと思っているフローラなのです。メモで繋いでいく記憶にも限界があります。物語は複雑な多重構造を持っており、フローラの一元的な視点を覆す事実がやがて明らかになっていきます。いやはや、まずはフローラの無鉄砲な行動を見守りながら、自分の娘がこんな状態だったらどうする、なんて想像してみると良いかも知れません。外に出ない方が良いんじゃないかと思いますよね、ほんと。
この前向性健忘症という状態については、あの数学者や、あの探偵の物語など、色々と小説の題材になっているため、ご存知の方も多いかも知れません。この物語がYA作品として魅力的であるのは、そうした道具立てや結構の面白さだけではなく、フローラという重い運命を背負った少女が、自分自身の力で扉を開き、この世界を獲得していく姿が描かれていくからです。当然、非力です。ずっと混乱しています。それでも彼女は本来、自分で行動を起こしていく性向を持っているのです。彼女の人生が狭い場所に閉じ込められず、本来の彼女が開放されるようにと願う人物によって、彼女は見守られていました。ただフローラは、その人と交わした多くの言葉を忘れてしまっています。主人公が覚えていないところにドラマがあり、彼女のことを心底考えている人がいる、という物語の構造に実に唸ってしまいました。『フラニーとゾーイ』に通じるものがここにあって、などと言ってしまうとバレバレなのですが、この情愛がとても尊く、愛おしく、その祈りと願いに胸を貫かれると思います。いや、フローラをめぐる人たち、それぞれの心配もわかるんですよ。だって、ほっとけないもの。