出 版 社: 学研プラス 著 者: 福明子 発 行 年: 2012年07月 |
< ポテトサラダ 紹介と感想>
2020年7月にポテトサラダの話題がSNS上で盛り上がっていたことなど、すぐに忘れられてしまうのだろうと思うので、ここに繋ぎとめておきます(なんのために?)。スーパーのお惣菜売り場でポテトサラダを買おうとしたら、知らないおじいさんに「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と罵倒された、というツイートが話題でした。これはまあ、僕のようにポテトサラダ作りに情熱をかたむけている者からすると複雑になってしまうのですが、論点は家庭料理のあり方についてではなく、失礼ながら、「このジジイが人として失礼」という一言に尽きます。コロッケもポテトサラダも実に手間がかかる料理で、逆に、売っているものの方が安価で美味しいのです。コスパからすると、出来合いの惣菜を買った方が賢明です。自分も研鑽を重ねていますが、実際、美味しく作るのは難しいものです。さらに「お店のポテトサラダ」にはサムシングがあるとされるのが児童文学の世界で、この物語を思い出したので揚げておきます。いや、揚げるのはコロッケです。コロッケもまたいい感じで登場する物語なので、コロッケ児童文学としての楽しみもあります。ポテトサラダとコロッケを食べたくなる物語。ああ、個人的に好きなのはハムカツです。ハムカツは家では作らないので、「買ってくる味」だなあと思っています。で、時折、無性に食べたくなるのです。
昔ながらの商店街に終焉が迫っていました。揚げ物やサラダが人気だった商店街の精肉店も閉店を余儀なくされようとしています。かつてはにぎやかだった北口駅前通り商店街。五年前に駅の南口に大型のスーパーができ、商店街のお客さんは随分と減ってしまっていました。今度は北口の駅にのぼる階段下に、惣菜を売る店をスーパーが出すとなれば、さらに商店街に足を向ける人はいなくなっていきます。せのお精肉店は、トンカツやポテトサラダなどのお惣菜が自慢のお店でした。でも、商店街が廃れた今となっては、客足は減る一方。せのお精肉店を営んでいた老夫婦はついに閉店することを決意しました。どんなに美味しいものを真心こめて作っていても、お客さんには通じないのだから、仕方がなかったのです。ところが、閉店セールのポスターを見て、なんとか店を続けてくれないかと懇願する人がいました。病気で入院した息子のケイくんが大好きだったポテトサラダがなくなってしまうなんてと、ケイくんのママは困ってしまったのです。入院しているケイくんは、強い薬の副作用で何も食べられなくなっていました。それでも、この店のポテトサラダなら食べられるかもしれないと希望を抱いていたのに。泣いているケイくんのママに、精肉店のおばあちゃんは、すぐさまコロッケを揚げて『これね、なみだのくすりなの。なみだが止まらないときには、これ、自分であげて食べるのよ。』とさしだします。ケイくんのママが、アツアツのところをサクリと音を立ててほおばり、少しだけ笑顔になる、そんな良い場面もありました。
コロッケだけでなく、ポテトサラダもまた人を元気づけます。手術では治らないケイくんの病気は、強い薬しか効かず、その副作用で食事が喉を通りません。それでも、大好きな、せのお精肉店のポテトサラダなら、ということで、少しづつ食べられるようになっていきます。ケイくんは回復して、友だちと一緒に、助けてもらった感謝をこめて『ほこほこコロッケはなみだのくすり、それからおすすめ命のサラダ』というコピーを作り、せのお精肉店にお客さんがくるようにキャンペーンを始めます。それが功を奏して、沢山のお客さんがきてくれたけれど、閉店が回避されたかどうかはわからないまま物語は結ばれます。一時的に売上があがったとしても、商店街自体が復興することがないことは読者もまた知ることであり、ここに残された哀感が、老夫婦の仕事にこめてきた丹精や、子どもの一途さとハーモニーを醸します。作者あとがきに『時の流れや、くらしの変化で、お店が消えていくのは止められません。けれど、たくさんの小さな一生懸命が、町のちいさなお店に生まれていたことを、忘れたくないと思います』とあります。そんな思いが込められた物語です。スーパーのお惣菜だって、そんな心の交流があるやも知れないし、丹精がこめられているのかも知れません。自分が知らないところにそれぞれの物語があって、人の心の事情に思いをはせる想像力が、感じとらせてくれる世界もあります。駅前商店街の衰退もまた児童文学で良く扱われる題材です。直近だと『中くらいの幸せの味』などの作品もありました。個人的には、町おこしが上手くいきそうで、やっぱり上手くいかない物語の哀感を愛するところです。