出 版 社: 河出書房新社 著 者: ギャレット・フレイマン=ウェア 翻 訳 者: 宮家あゆみ 発 行 年: 2003年07月 |
< マイ・ハートビート 紹介と感想 >
「学校の社交界」という表現を使われていたのは、(当時、ライトノベル作家だった)桜庭一樹さんでしたが、なかなか言い得て妙な言葉かな、と思っていました。社交界にデビューするには、それなりの話題と、気遣いが必要で、なによりも人間関係のバランス感覚がなくてはいけません。ライトノベル作品なら、そうした細事をぶち壊す性格破綻者の変人美少女が圧倒的なパワーで突き抜けていくものと思いますが、ヤングアダルト作品だと、もう少し、微妙な距離感で、社交界と距離をとる少女が大半を占めるのではないかと思われます。いや、むしろ、社交界を遠巻きに見つめている少女こそが、主人公となりうるものかも知れません。『学校でうまくやるには、巻き込まれないのが一番だ。たいていはこの方法でうまくいく』、孤高の少女なりに身についた学校での過ごし方。とはいえ、彼女、十四歳のエレンには、ちょっと普通の子とは違って、社交界に注目されてしまう、目立つものを持っていたのです。それは、彼女自身に備わったものではなく、神童と呼ばれている天才肌の兄、リンク。そして、兄の親友の美少年、ジェームズ。二人は、いつも学校の非常階段で佇んでいるだけで、全校の女の子たちの関心を集めていました。できすぎる兄の妹であるエレンは、微妙な立ち居地で学校生活を過ごしています。ある意味、兄と、そして、エレンが密かに恋するジェームズがいれば、完結した関係の輪が完成してしまうのです。他の関係は必要ない。とはいえ、社交性を問われすぎないように、多少は気遣いが必要だな、と興味がないものの「社会への帰属」を意識しはじめている、そんな微妙な時間に彼女はいます。
大学進学を前にして、リンクとジェームズの関係に微妙な空気が流れ始めます。それは、ジェームズがゲイ(同性愛者)であることを明確にカミングアウト(公開)したことによります。エレンにとって、ジャームズの存在は、ただ憧れるだけの人ではなく、兄との「関係」を踏まえた上での、大切な友人でした。エレンは同性愛に関心を持ち、ひたすらその世界を調べ始めます。兄、リンクは、ジェームズを避けるようにして、ガールフレンドと付き合うようになり、エレンは、以前と同じようにジェームズと親しくしながらも、複雑な感情を抱かざるをえません。自分がしてもらえることは、リンクの代わりにジェームズに愛してもらうことだ。ジェームズもエレンを求めている様子を見せますが、エレンには、ジェームズがリンクを求めていることがわかっています。ジェームズの恋人となって恋愛関係を進展させるエレンの心に影を落すのは、やはりリンクのこと。十四歳の女の子の抱える、微妙な心の内側が、繊細な表現で綴られていきます。人を好きになること、特に、こうした複雑な恋愛の中で、舞い上がることなく、淡々とした会話で、自分の心を発見して、検証していくエレンの姿が印象的です(ちょっと冷静すぎるきらいはあるのですが)。
リンクとエレンの兄妹の家も、ジェームズの家も、両親ともにインテリで、その家族の会話といい、中流以上の家庭の知的な雰囲気を持っています。特に、兄妹の父の「自分の心臓の音(ハートビート)に従って生きよ」という、一見、リベラルな言葉を口にする理解ある父親を演じながら、それと裏腹な、保守性のようなものに縛られている人物像が興味深く、そうした父との関係の中で、エレンが繊細に感じ取っていくものもあるのです。十四歳の目には、両親を盲信するだけではなく、もう少し人間として見えてくるものがあります。エレンは、ジェームズとの恋愛や、家族との関係の中で、自分自身を発見していきます。距離をはかって、自分の姿を見られないようにすることに巧みになるのではなく、自分自身をさらけだして、愛されることの意味を知るのです。人間の本質というものは、実に多面的で、自分自身にも計りかねるものがありますが、十四歳、という分岐点なりの気づきが、ストレートな言葉で表現された作品ですね。僕の十四歳時の凡庸さを思うと、女子の成熟の早さに舌を巻く部分はあります。米国の優秀なYA作品に与えられるマイケル・プリンツ賞オナーの受賞作で、静かな作品ですが、同年代にはその感受性を刺激する言葉が溢れているのではないかと思います。