中三・ラプソディ

出 版 社: 講談社

著     者: 花里真希

発 行 年: 2025年09月

中三・ラプソディ 紹介と感想>

この作品は倍のボリュームがあっても良いのではないか、と思うほど物語の着想が素晴らしいのです。なにせ、合唱コンクールの自由曲でクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』を演奏することになった中学三年生の主人公の目の前に、フレディ・マーキュリーがイマジナリー・フレンドとして現れるとは、なんという奇想なのか。この題材を消化するには、生半可な紙片では足りないだろうと思うのです。逆に言えば、短くて物足りない、という渇望を抱いている読後感です。実在の人物がイマジナリー・フレンドとして現れて、主人公にアドバイスを送る奇想天外な物語と言えば、古い映画ですが、ウディ・アレン脚本主演の『ボギー!俺も男だ』を思い出します。不甲斐ない主人公の男性の前に、憧れの男性であるハンフリー・ボガード(というか『カサブランカ』のリックか)の幻影が現れて「男の生き方」を示してくれるという実に面白い物語でした。このボギー(ハンフリー・ボガードの愛称)の存在感よ。クセの強さという点では、フレディ・マーキュリーという人物も圧倒的です(彼の自伝映画も傑作なのでおすすめです)。あれだけの素晴らしい楽曲を生み出した音楽的才能と奇抜で奔放な私生活。その裏にあった葛藤や苦悩など。まあ、人生の様々な局面に「フレディだったらどう言うか」は気になるところです。ということで、悩める中学三年生女子の前に現れたフレディは果たして何を示唆したのか。ところで、イマジナリーフレンドというものの限界点は、無意識も含めて、見える本人が作り出した幻影であるということです。伝説のロックスターとはいえ、フレディの人となりをそれほど詳しく知らない中学生には、自ずとイマジナリーフレディもスケールダウンせざるを得ないわけです。ただここには物語の仕掛けがあり、フレディであってフレディではない、この「ゲイの口ひげのおじさん」が、この物語のひとつの焦点となります。などと、そこだけで感想の前段を書いてしまえるほど、この題材の鮮烈さに圧倒させられています。

中学三年生の女子、季里(きり)は成績も良く、なんでもできる子です。いつもクラスの中心にいるような優等生ですが、唯一、音痴という欠点があります。なので、クラス対抗の合唱コンクールでは、歌わなくてすむ指揮者に立候補するつもりでいました。ところが人数の関係で、指揮者は男子と先生に決められ、季里はパートリーダーを任されるという困った状態に追い込まれます。指揮者は男子の中でもしっかりしていないタイプの颯太(そうた)が務めるということで、不安材料があり、しかも自由曲は伝説の英国のロックバンド、クィーンの『ボヘミアン・ラプソディ』なのです。名曲ですが、かなりの難曲です。ただ季里にとって、この曲は思い出深いものでした。季里が三歳の時に失踪してしまった父親がいつも聞いていた曲だったのです。ただ、この曲を合唱コンクールで唄うことは、母親に父親を思い出させることになるため、季里は黙っていることにしました。何故、父親は失踪したのか。父親が大好きだった季里としては、そのことが心にひっかかっていました。父親のことを知りたい季里は、代わりにクィーンや、ボーカルのフレディ・マーキュリーのことをネットで知らべるようになります。合唱はなかなかまとまらないまま、コンクールの日は近づいていきます。季里は自分の歌の下手さにいたたまれず、それが周囲にも気づかれていることに気まずくなります。そんな折、季里の目の前に口ヒゲを生やした男性が現れるようになります。フレディ・マーキュリーその人です。日本語をしゃべり、自分はイマジナリーフレンドみたいなものだというフレディ。仰天しながらも季里は幼い頃、この人物と遊んでいたことを思い出しました。フレディと一緒に発声練習をしながら、季里は次第に忘れていた父親のことを思い出すようになります。自分の定まらない音程をピアノ伴奏者の杉浦さんと一緒に矯正しながら、季里はクラスで孤高をかこつ彼女の囚われない考え方に感化されていき、周囲に気を使って、本心を隠して合わせようとしてきた自分にも疑問を持ちはじめます。進路を思い直したり、「父親の真実」を知り複雑な心境になったり、多忙な中三ライフを送りながら季里は自分と向き合っていきます。

合唱モノでおなじみの、真面目に練習しない男子と、それに腹を立てて対立する女子という構図がここでも描かれます。こんな場合、指揮者がリーダーシップを発揮して、合唱をまとめるべきですが、颯太はどうにも不甲斐なく、逆にそうした颯太を支えるためにクラスが団結するという展開となります。真面目に練習しない少数派の男子たちが、周囲からの反感を集め立場を失い「気まずくなる」というデリケートな関係性が描かれりあたりも、現代的な感受性という気もします。合唱は声を合わせるために、心をひとつにすることが求められますが、真面目に練習しない男子側の理由を詳らかにし、そこに役割と立場を与えるなど、中学校のクラスの人間関係のフォーメーションやバランス調整が面白いところです。そんな状況の中、なんでもできる子であることが自分のアイデンティティであった季里も、できないけれど真剣に取り組むことで信望を集めていく颯太の姿に刺激を受けます。人は完全である必要はない。とは言いながら、ここに明確な答えが見つかるわけではないのです。それでも、なんとなく感じとれるものがある。ゲイであった父親の葛藤を「ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞に見出していく季里。正しく筋道を通すことを人は必ずしもできないし、葛藤と苦悩の中で思うさま気持ちを爆発させることもまたアリです。世の中は道理を通すだけではないし、正解などないということが正解です。クラス合唱という混沌、あるいは坩堝。その渦の中で翻弄されることも中学生の醍醐味だなと思います。