出 版 社: くもん出版 著 者: 今井恭子 発 行 年: 2015年07月 |
< 丸天井の下の「ワーオ!」 紹介と感想>
文字や行が重なって見えて、読むことが困難な上、単語をひとまとめにして捉えることも苦手で意味がつかめない。小学六年生のマホにはディスレクシアと呼ばれる文字の読み書きが難しい識字障害がありました。しゃべることは誰よりも得意で、人前で読み書きさえしなければ、利発な子だと思われるマホ。言葉は次から次へと湧いてきます。以前は即興で物語を語ることだってできたのです。しかし、この頃のマホはみじめな気持ちに苛まれています。学校でマホのディスレクシアをフォローしてくれていた友だちが引っ越してしまったから、ではなく、自分をフォローすることから解放されて伸び伸びしている様子を彼女の手紙から感じたから、なのです。マホは複雑に屈折したメンタルを抱えてしまっていまます。自分が、人に気遣われている存在だということを思い知らされ続けているマホ。さらに「博物館」と呼ばれている丸い屋根の市民資料館に展示してもらった、思いを込めて作った工作の説明文が、先生に子どもっぽく単純に書き直されていて、なけなしの自尊心も打ち砕かれていました。そんな博物館でマホは、スケッチブックを抱えて絵を描く中学生の少年、正樹と出会います。端正な顔をした美形だけれど、ちょっとぶっきらぼうなところもある正樹。この夏休み、マホは博物館で正樹と一緒に過ごし、今までの自分を越えていく挑戦をすることになります。
博物館で知り合った正樹にディスクレシアであることを気づかれていないマホは、小さな頃に憧れていた「物語を作ること」を、彼の目の前ではじめてみます。聞き手を得たことでマホは、文字を書かなくとも、思うままに物語を作り、語っていけることに手ごたえを感じます。すべての人類の遺伝子は20万年前にアフリカにいた一人の女性(ミトコンドリア・イヴ)に行きつく、という研究に着想を得た展示作品を作っていたマホは、彼女、イヴを主人公にした太古の物語を紡ぎ出します。このマホが作り出す作中物語が語られながら、やがて正樹とマホ、二人のそれぞれの葛藤が口に出されるようになります。 「配慮」のすれ違いを考えさせられる物語です。気遣いばかりで誰からも「触れられない」状態になっていたマホが、正樹にはっきりと言葉で励まされることで当惑するあたりも「配慮」が過ぎた状況のいびつさを思います。周囲の配慮もまた情愛の形です。それゆえに申し訳ない気持ちを抱いているマホもまたいます。マホが作る物語の中では、傷つけられる側ではなく、傷つけてしまった側の痛みや贖罪と再生が語られています。そこにマホの現在の心境と未来への希望が語られているように思えます。正樹の励ましをどう受け止めるか。人類の歴史は受け継がれ、未来はここから始まっていく。まだ自分を信じられず半信半疑なままのマホが、物語に託した希望がいじらしく、応援したくなるのです。
ディスレクシアを題材とした海外作品が頻繁に翻訳刊行されていますが、2015年に国内児童文学の創作作品としてディスレクシアを描いた本作が刊行されたことは、エポックを作ったと思います。海外作品との違いを感じたのは、ディスレクシアである小学六年生の少女マホが、精神的に拘束された状態にいるその理由です。ディスクレシアであることで自分自身の存在自体に自信を失っているのは多くの海外作品と同じですが、ここでマホを追いつめ、よりみじめに感じさせているものは、周囲の「過剰な配慮」でした。母親はマホのために仕事を辞め、マホの学校生活をバックアップしています。学校では特別な支援を受け、便宜をはかってもらっています。友だちもマホを気づかってくれますが、マホは人に気をつかわせ、配慮される存在である自分に辟易しています。この作品の前年に一般小説でディスレクシアの男子中学生を物語の中心に据えた連作短編『ぼくの守る星』(神田茜)が刊行されていますが、母親が社会的なキャリアを投げうって子どもをサポートし、そのことに子どもが心理的に追いつめられている構図は共通しています。現代日本を舞台に物語を描くことで、「過剰な配慮」や「過干渉」など、海外作品とはまた違った観点でディスレクシアが描かれて、そこでの主人公の感情が描きだされている点は興味深いところです。ただ、その配慮によって主人公は自分を無力だと思いこんでしまう。配慮もまた「励まし」なのだと単純には換言することは難しいものですが、小さな気づきを得たマホが、この後、ディスレクシアを抱えたままでも、自分の未来を見出していける予感が余韻として残る、希望を描いた物語です。