出 版 社: ポプラ社 著 者: 八束澄子 発 行 年: 2020年08月 |
< 団地のコトリ 紹介と感想>
人にはあたりまえにできることが、自分にはできない。その理由をうまく人に説明するのは難しいものです。技術的な問題ではなく、心の障壁である場合は尚更です。何でこんな簡単なことができないのかと、きっと人には思われてしまう。その理由は理解されないだろうし、それを口にして他愛もないものと呆れられたのなら、傷ついてしまう。だから口を閉ざして、できないままでいる。そんな悪循環から抜け出すことができない人生もあります。グズで、だらしがないから自分はダメなのだと、自らを見下してしまうのは悲しいことですが、どんな時もずっと自分を好きでいることもまた難しいものです。この物語の主人公である中学二年生の美月は、友だちに誘われても、教会の「日曜教室」にいくことに抵抗がありました。その理由をうまく説明することが美月にはできないのです。美月はそんな自分を持て余しています。人が前に進むためには、克己心が必要なのかも知れません。辛い気持ちも、心を開いて誰かとわかちあったり、挫けそうな時も、自分を励まし、好きな自分でいられるようにすべきなのでしょう。それが理想であっても、できない時はあります。そんな、できない自分と向き合った時間もまた、生きる糧となるのだと思うのです。器用にこなせなくてもいい。ぎこちなくても、おそるおそる近づいていけばいい。これは、そうした労しくもあえかな心に寄り添う物語です。人は一人ではないのだと、あらかじめそうなのだと、信じる気持ちに、あらためて力をもらえる読書になるはずです。
市営団地にお母さんと二人で暮らす中学二年生の美月。お父さんは四年生の時に、仕事の過労から亡くなっていて、今はお母さんが働いて生活を支えていてくれます。親戚もおらず、どこか不安な気持ちを抱えながらも、ごく普通の中学生として、クラブ活動のバレーボールに打ち込み、美月は日々を楽しく暮らしていました。そんな折、逃げてしまったペットのインコを探していた美月は、団地の元の自治会長の柴田さんの部屋のベランダに、その行方を見つけます。以前は団地の子どもたちのヒーローだった柴田さんは、奥さんを亡くして以来、すっかり気落ちしてしまっていました。その時、美月は、一人暮らしのはずの柴田さんの部屋に、女の子がいることを察するのです。ミステリアスな展開が、ここから美月の日常の物語に並走しはじめます。柴田さんの部屋には、病気の若い母親と一緒に、学校にも通わないまま暮らしている小学五年生の女の子、陽菜がいました。外にも出ないまま、ここに隠れ棲んでいる母娘は、柴田さんとは縁もゆかりもありません。母親は社会をうまく生きていくことができず、陽菜を施設に預けていましたが、ふとした縁から柴田さんに居場所を与えてもらい、陽菜を施設から連れ出し、ここで社会と隔絶したまま、二人で隠れて暮らすことにしたのです。そんな事情を、陽菜がひそかに「団地のコトリ」と呼んで意識していた美月が知るのは、事態が取り返しがつかない段階にまで進んだ時です。いえ、失われたものはあるものの、取り返しがつかないということはないのだと、未来への希望が灯される物語ではあるのですが、痛切なものを感じます。ともかくも、途中から、このままどうなるんだろうと先の読めない展開に驚かされました。陽菜たち母娘は、謎めいた存在にも思えますが、実際、現代の世の中の片隅に確実にいる窮状を抱えた人たちです。自分の姿を白日のもとに晒されることを恐れているのは、今まで沢山、社会に傷つけられてきた心の遍歴があるからでしょう。不憫という言葉で総括してしまうだけではなく、現実的に支援を考えなければならないのですが、そこに手を伸ばそうとするにも、心につかえるものがあります。十四歳の美月の視座から捉えられる、そんな難しい世界。しかし、自分のスケール(もの差し)が測る人との距離は、自分次第で大きく変わっていくのです。
僕も小学四年生の時に親を亡くしているので、美月の抱えている説明の難しい不安感に覚えがあります。そして、そんな気持ちだけに沈んではいらない、日常生活があるということもまた経験しています。立ち直っていようがいまいが、受験のような人生の大きなイベントは否応なく迫ってきます。ただでさえ自分には自信が持てない時期で、些細なことで凹んだり、調子に乗ったりします。そして、心の中の漠然とした不安に翻弄され続けているのです。美月がバレーボールに打ち込み、勝ち負けはともかく、自分に満足して充足感を得ていく展開が嬉しかったのは、こうありたかったという僕自身の理想だからかも知れません。何よりも、美月がお母さんから、自分を好きでいてほしいと、言われる場面は胸が熱くなります。お父さんが亡くなったことを思い出し、美月が教会に足を踏み入れるのを戸惑う場面は、その痛みが消えていないことを現していますが、お父さんと過ごした時間もまた消えずに美月を支えてくれていました。一方で、父親の記憶がなく、母娘とも別れて育った陽菜の心の拠り所を考えさせられます。母娘と団地に隠れ棲んでいたこのひとときに、陽菜にも与えられたものがあるはずです。陽菜が失ったものと、陽菜に遺されたものについて、美月が思いを寄せる構図によって、この物語は光を放ちます。「居住所不明児童の問題を描く」というセンセーショナルな題材は、今、ホットな「新しい貧困児童文学作品」のように、そこに向けられた作者のまなざしのあたたかさを慈しむものだと思っています。この物語は、自分自身がまだ脆弱なコトリである美月の視線を通して、小さな小鳥のヒナ(陽菜)を、恐る恐る手にいだく時の、ふるえるような気持ちが描き出されていきます。陽菜のことを愛おしく思いながらも、ひとりっ子で育ったため、年少の女の子にどう接して良いかわからず、間が持たない、なんて感覚も絶妙で、もどかしいところです。つまりこれは、コトリが戸惑いながらもヒナを守り、慈しむ物語なのです。ああ、その一言だけで良かったのです。感想を長く書きすぎましたね。 “