バウムクーヘンとヒロシマ

ドイツ人捕虜ユーハイムの物語

出 版 社: くもん出版

著     者: 巣山ひろみ

発 行 年: 2020年06月

バウムクーヘンとヒロシマ 紹介と感想>

2020年は文化の転換点であったと、後に振り返られることになるだろうという予感がありますが、そんなことを呑気に言っていられないのがリアルタイムの現在地(2020年8月6日)です。感染症対策で、働き方が半ば強制的に改革されるなどの好事例もありましたが、不要不急の行動を減らすために、優先順位づけや選別が生じ、改めて当たり前の日常の行為が見つめ直されました。ここで命題となったのは、生命の危機がさし迫っている時に、文化的行為は必要なのかどうかということです。宴席やカラオケのみならず、演劇や映画などもフルイにかけられてしまいました。本書は、日本にバウムクーヘンを伝えたカール・ユーハイムさんの人生を描いた物語ですが、印象に残ったのは、パンが必要とされている時にお菓子を作っていて良いのか、という疑念を彼が抱いていたことです。だからこそ、必要に迫られないものを人が楽しめることが平和な世界なのだと、それが希求されてもいます。文化の豊かさは平和や平時の賜物であり、危機的状況では二の次になってしまいます。主客を転倒させて、豊かな文化を実現するために世の中を変えていくべきなのだ、とも言えます。より良く生きたいという願いを実現すること。そのために今、何をすべきか。そんな意識の目覚めがあった2020年です。自ずと答えは出ているわけですが、なかなか人類が一枚岩にもなれないことにも、もどかしさはありますね。美味しいバウムクーヘンを、いつでも食べられる世界を。そう願ってやまないところです。

広島市に住む小学六年生の男子、颯汰が地域の夏休みキャンプに参加しよう思ったのは、「バウムクーヘン作り体験」というメニューに惹かれたからです。バウムクーヘンこそ最強のお菓子だと信じる颯汰にとって、日本にはじめてバウムクーヘンが伝わった広島の似島でのキャンプは天啓でした。キャンプではバウムクーヘンを日本に伝えたカール・ユーハイムさんと同じやりかたとレシピで、実際にバウムクーヘンを作るのです。なんと魅力的な企画。しかし、そんな高ぶる気持ちを押さえられない颯汰に、キャンプスタッフのブンさんが話してくれたユーハイムさんの人生の物語は意外なものでした。ドイツで生まれ育ったユーハイムさんは、子どもの頃からマイスターと呼ばれる職人を目指し、菓子店での見習いを経て、二十歳になると当時ドイツが占領していた中国の青島で働くことになりました。菓子マイスターとなり、その腕を認められていくユーハイムさんでしたが、第一次世界大戦が勃発し、新たに青島を占領した日本軍にドイツ人捕虜として日本に連行されることになってしまうのです。短くない捕虜生活を経て、ようやくの休戦による友好ムードから、日独親善の作品展覧会が開かれることになり、捕虜の中でも腕に覚えのある職人たちがその力を振るう日がきました。ユーハイムさんは、広島市にあった物産陳列館で、本国仕込みのバウムクーヘンを披露することになります。ここで手応えを覚えたユーハイムさんは、日本で菓子職人として活躍していくことになります。銀座のカフェに勤めた後、自分のお店をオープンさせますが、その人生は順風満帆なだけではなかったようです。関東大震災での被災や激しくなっていく戦争の中で、次第に追いつめられ、お菓子は平和な時にしか作れないのか、と嘆くユーハイムさんの想い。それを噛み締めながら、颯汰もバウムクーヘン作りに挑むことになるのです。

この物語は戦争の時代に翻弄されながらも、日本に洋菓子文化を伝えたユーハイムさんの功績を辿りますが、もうひとつの軸として、ドイツの職人たちによる作品展覧会が行われた物産陳列館、後に、産業奨励館と名前を変え、今は「原爆ドーム」と呼ばれている建物が結んだ機縁ついても描かれていきます。颯汰がバウムクーヘンを好きになったのは、離れて暮らす祖父が、いつも手土産に持ってきてくれたからです。祖父にとってもバウムクーヘンには自分の父と思い出がありました。颯汰の曽祖父にあたる祖父の父がかつてバウムクーヘンを食べたことがあるという話から、颯汰はそれが、ユーハイムさんが物産陳列館で披露したものではなかったのと行き当たります。そして、原爆で亡くなった曽祖父がここに繋がり、ひとつの円が結ばれます。曽祖父がその人生でたった一度だけ食べたバウムクーヘン。曽祖父とバウムクーヘンを架け橋に、颯汰がかつての戦争の時代を知り、平和な時代に生きる歓びと、理不尽な時代への複雑な想いを抱く物語はややアクロバットですが、しかしながら、その連環の妙に不思議な感慨を抱いてしまうのです。いえ、思いもよらない出来事に人間は流され、どこかに連れ去られ、そこで出会うものがあるのだろうと思うのです。色々な機縁に今さらながら圧倒されているこの頃なので、非常に感じ入ってしまった物語です。バウムクーヘンの製法も詳しく紹介されていますが、どうしてこんな発想のお菓子が生まれたのか、その不思議を思います。ユーハイムさんが日本でどうにかしてバウムクーヘンを焼こうと苦心するあたりも楽しかったですね。