拝啓パンクスノットデッドさま

出 版 社: くもん出版

著     者: 石川宏千花

発 行 年: 2020年10月

拝啓パンクスノットデッドさま  紹介と感想>

音楽を楽しむだけではなく、「自分がどんな音楽を聴いているか」ということに支えられていた時期がありました。無論、思春期の頃の話です。例えば、どんなアーティストのレコードやCDを聴いているのかが、自分という人間の個性だと思っていたし、大切なことだと感じていた時期が自分にもあったのです。現代(2021年)のように、ネットの配信やサブスクリプションでどんな音楽でも簡単に聞けるようになると、別に何を聞いていようとたいしたことじゃないなと感じてしまいます。聞こうと思えばなんでも聞けるのです。同じように、図書館のOPACで探せば、大抵の本を読むことができます。リクエストも簡単です。映画もそうですね。関連知識もネットで簡単に検索できるわけで、知っている、ということの意味はなくなっていきます。大抵のことはデータの蓄積に過ぎない。そうなるとますます「好き」ということの意味が際立つものかも知れません。大人になると、キャリアや資格に頼りがちですが、学生時分は、自分の個性や存在意義が揺らいだ時に、趣味が自分を守る鎧になってくれた気がします。いや、ここが難しくて、好きを純粋に謳歌するのではなく、知識を競ってばかりいた気もするのです。勝ち負けじゃないのに。自分も中学生の頃からジャズを聴きかじり始めて、同年代と話が合わないことに、ちょっとした歓びを感じていました。なので、なにかを「推す」ことがパーソナリティであるという現代の純粋な感覚が羨ましいのです。かつての青春のように、劣等感と優越感に翻弄されるのはしんどいものです(大槻ケンヂさんの青春小説『グミ・チョコレート・パイン』のような感覚は現代の高校生には、もはや遠いのかも知れません)。さて本書は、パンクロックが好きな高校一年生を主人公にした物語です。今どき、パンクです。かといってスノッブでも、ぺダンティックに鼻にかけるでもなく、彼の「好き」は実に切実です。周囲の高校生や大学生や、大人になりきれない大人たちとの関係性の中で、少年が自分を見据えていく見事な逡巡の物語。第61回児童文学協会賞受賞作。前年の受賞作『アドリブ』と同様に、十五歳の少年が音楽にひたむきに向きあう物語ですが、この違いを、読み比べて欲しいと思います。そんな合わせ技感も是非。

公立高校に通う十五歳の少年、夏目晴己(はるみ)の毎日は、生活との闘いです。中華料理店と100円ショップのアルバイトを掛け持ちしているのは、実際、生活に困窮しているからです。父親は誰かもわからず、母親は家に寄りつかないまま、わずかな生活費をくれるだけ。それさえも減額され始めると、晴己は、自分と二歳歳下の弟との生活を支えていくことに不安を覚えます。そして、部活や委員会活動どころじゃない、こんな生活を強いられている自分という存在の惨めさにも侵蝕されていくのです。そんな晴己を支えているのが、音楽です。晴己たち兄弟の面倒を見てくれている母親の友人、しんちゃんの影響で、晴己が好きになったのは、クラッシュやセックス・ピストルズなどに代表される初期パンク。そこにあるパンクのスピリットに、晴己は感化され、支えられていました。しんちゃんから譲り受けたエレキベースを弾きこなす晴己は、いつかは弟の右哉とともに、自分たちのバンドを組みたいと思いながらも、あらかじめ諦めてしまっていたのは、先の見えない生活への不安からです。いや、そうした境遇に置かれている自分自身への失望からか。学校でも普通にふるまうことができず、不自然に生きざるを得ない晴己は、余計な感情をあらわにする余裕もありません。そんな晴己が、バイト先の大学生に頼まれて、音楽サークルに参加することになったり、高校生の音楽イベントに自分のバンドを組み、出場するチャンスが巡ってきます。自意識の強い高校生や大学生や、いい歳をした大人であるはずの、しんちゃんの葛藤に向きあいながら、晴己もまた自分が求めていたものに正面から向き合うことになります。パンクスノットデット。自分自身の気持ちに戸惑いながらも、音楽の歓びと不屈のスピリットに支えられた少年の季節が心地良い物語です。

虚栄心に踊らされることのない、晴己のストイックな一途さや慎ましさに好感を持ちます。彼は他人にはあまり興味がありません。それどころじゃないからです。自分の個性やキャラに悩むような普通の子たちから見れば、晴己のスタンスは異質であり、驚異でもあるでしょう。一方で晴己は、勝手な母親や手のかかる弟に非常に強い愛着があり、その気持ちを自分でもどう受け入れて良いのか分からず、持て余しています。その彷徨はどこへ向かうのか。自意識の権化のような高校生や大学生の等身大の悩みなど、晴己にとっては、次元が違う世界のものですが、そこに彼が歩み寄ることになる展開も興味深いところです。しんちゃんの大人げなさもまた魅力的です。この物語を読んでいると、高校生や大学生だった頃の会話をやたらと思い出します。ハードコアパンクが好きだった高校の頃の友人の「カッコいい服を買いに行く服がないからエレキギターをしょっていった」みたいな、おバカエピソードは当時から笑える話なんですが、なかなか生き方までパンクになれないものですよね。大学の時に、ボクシングやロックをやっている子たちが「自分にはハングリーさがないからダメだ」と嘆いていたのは、彼らが非常に裕福な家の子だったからで、贅沢なことを言っているなあと思いながらも、そのアイデンティティの渇望も理解できるところでした。売れないほどバンドのスピリットは研ぎ澄まされ、読まれないほど文学は深まります。経済的余裕はあったほうが良いものですが、そこには満たされない魂の渇望があったりするから、思春期ってやっかいだなあと思います。本書は、貧困を考える昨今の児童文学のもうひとつの扉を開いた感もあり、あらたな問いかけと励ましに満ちた秀逸な物語でした。