出 版 社: 文渓堂 著 者: 八束澄子 発 行 年: 1993年12月 |
< 青春航路ふぇにっくす丸 紹介と感想 >
ふぇにっくす丸は海に浮かぶ海上クレーンです。全長八十二メートルの船には、高さ四十メートルもある巨大クレーンが装備され、港に着く船舶の荷物の上げ下ろしや、海上での引き揚げ作業に活躍します。自力で推進できないものの、タグボートに曳航してもらうことで、全国、どこの海にでも行くことができる。そんな「動く職場」で働く新人甲板員のひろしは、まだ十五歳。工業高校に進学したものの、かったるくて退屈な毎日に嫌気がさし、三か月で学校を辞めて、この船の甲板員募集に応募しました。クレーンに引き上げてもらうために、重い荷物にワイヤーロープをかけるのが甲板員の役割ですが、ひとつ間違えば、大きな事故につながりかねない危険をはらんだ仕事です。ひろしも、同じ職場で働く同い年の真二も、先輩船員たちにいつも厳しく注意されながら仕事をしています。いつかは自分も技能を習得して、あの巨大なクレーンを操縦できるようになりたい。ひろしの胸には、ひとつの希望が灯っていました。それでも、仲の良い真二と夜更かししてファミコンに興じてしまう、まだ十五歳の遊びたい盛りの気持も残っています。社会人の厳しさを身を持って学んでいく、ひろしの修行時代の姿。ゴツゴツとした感触ながら、爽やかな気持ちにさせられる、海で働く少年たちの物語です。
真面目だけれど、出来の良いタイプではなかったひろしは、せっかく進学した高校でも、先生にいつも罵倒されていました。働き始めてからも、仕事が休みの平日に、町に出てゲームセンターにいれば警官に補導され、何度も自分が社会人だと説明してもわかってもらえず、ようやく誤解が解けても、謝ってさえもらえないのです。そうした悔しさ。若くて、経験がなくて、なにができるというわけでもない。多少、仕事は覚えてきたものの、陸にあがれば、また自信のない少年に戻ってしまう所在のなさ。しかし、これはやや仕方がないことではないかなと僕は思うのです。基本、若造は世の中でナメられてしまいがちなものです。勉強ができなかったり、見てくれや素行が悪ければなおのこと。それは偏見に満ちた世の中や、色眼鏡で見る大人が悪いのだ、というのは正論ですが、やはり人間は自らを高める努力も必要です。まずは、自分に自信が持てるように修行を積まなくては。ひろしと真二は、先輩船員に勧められて、小型船舶の免許をとるための勉強をはじめます。学校の勉強は得意じゃなかった二人が、自分に力をつけるために、はじめて実りある勉強をするのです。やがて、苦労の末、免許を取得し、船に起きた大事故をも乗り越えた少年たちには、人生の次のステージが待っています。思いもかけない続編にこの物語は続きますが、船上で空の青さと海の藍さを満喫しながら、充足した気持ちで、ひろしが船員としての「これから」を考えていく本書のラストには、働く人間の歓びともいうべきものに、心地よく酔うことができます。それは苦労と努力の上に得た果実の大切さを感じ取らせてくれるものです。
あまり理不尽なものは別として、先達の説教やお小言は耳に痛くても、修行時代には必要なものです。ひろしも真二も先輩船員たちに、よく叱られます。ただ、学校の先生からの罵声とは違うものを、ちゃんと二人は感じとっています。危険な仕事での安全面や技能的なことはもちろん、船の共同生活の中で、箸のあげおろしから、礼儀作法にいたるまで、さまざまな注意を受ける。それは、社会人として恥ずかしくないように少年たちを仕込もうという先輩船員たちの親心です。もっとも、そんな言葉よりも雄弁に語っているのは先輩たちの背中で、それぞれのこれまでの人生が少年たちに見せてくれるものがあります。汗と油にまみれた労働者である大人が多く登場するのが、八束澄子さんの作品の特徴です。生活の糧を得るだけではなく、人が自分の人生を充実させるために行う「労働」が、どんな大切であるかは、学校では学べないものです。周囲の大人たちの働く姿が語りかけるものを、子どもたちが受け継ぎ、学んでいく理想がそこにはあります。僕が学校を卒業して会社員になったのも90年代前半、当時は上司や先輩たちが丹念に指導してくれました。電話の受話器のあげおろしひとつから、文章を書けば赤ペンだらけになるまで修正してもらいました。しかし、新人をとことん育てる日本の会社の美風も20世紀の遺物で、多様な雇用形態が当たり前になった現在、やや空気が変わってきています。そうした意味では、この物語もまた、時代を感じさせるものになってしまうのかも知れません。