街かどの夏休み

出 版 社: 旺文社

著     者: 木暮正夫

発 行 年: 1986年06月


街かどの夏休み  紹介と感想 >
一学期最後の日。小学五年生の淳司は、明日からはじまる夏休みを楽しみにしていました。夏休みの後半には、商店街の子ども会で山か海にキャンプにでかけるし、子ども縁日まつりなんてイベントもあるのです。ところが、学校帰りに偶然に遭った同じクラスの優等生、東野くんは、どうも浮かない顔をしています。話を聞いてみると、彼は、この夏休み、ハイレベルな学習塾の八丈島合宿に参加しなければならないというのです。歯科医の息子で、親から期待をかけられている東野くんは、勉強ばかりで、クラスにもあまり親しくしている友だちもいません。淳司からして見れば、飛行機に乗って八丈島に行く東野くんが羨ましかったりもするのですが、彼にはどうも限界が迫っているようでした。新聞販売店の長男である淳司は、ぱっとしない通信簿に、多少、お小言を言われることはあっても、そんなに勉強に追い詰められるようなことはありません。夏休みが始まれば、早朝からラジオ体操に妹と一緒に出かけ、学校のプールに行き、あとは子ども会の集まりに行くぐらいの、のんびりしたものなのです。でも、この夏休み、淳司の日常をゆるがす事件が起きます。淳司の家の新聞販売店に勤めている新聞奨学生の橋本さんが、配達途中でトラックに接触し、ケガをして入院してしまったのです。配達員を直ぐに募集することは難しく、分担して橋本さんの分をカバーすることも大変です。そこで、急遽、ピンチランナーとして、白羽の矢が立ったのが淳司です。配達経験のない小学生が、朝夕、300軒以上の家に新聞を配ることになろうとは。果たして、淳司は無事、この大役を務めあげることができるのでしょうか。

息づく夏の街かどの情景を生き生きと感じさせてくれる作品です。舞台は十条。あの東京都北区の十条です。森忠明さんが描く立川のように、とりたてて美しくもない、ローカルで生活感あふれるごく普通の街。淳司のお父さんはこの街のことを「酒でいえば二級」だと言います。けれど、ここに住む人たちの街に寄せる愛着や情が、味わいぶかくこの街を感じ取らせてくれるのです。赤羽線の路線が延びて埼京線と名前を変えた頃。実在の場所と、お金の実数がやたらと出てくるところが生々しいのですが、そこに生活のリアリティがあります。淳司の家が営む新聞販売店は四人の新聞奨学生の面倒を見ていました。新聞を配達して、奨学金をもらいながら大学に通っている学生たち。この夏、働く学生や大人たちの仲間に入った淳司は、これまで近くにいながらも知らなかった世界に目を見張ります。お父さんは厳しくも、淳司を指導していきます。配達員の責任と自覚、そして誇りと歓びを教えるのです。小さな失敗をしながらも、だんだんと手応えを得ていく淳司は、やがて新聞を配達する達成感に満たされていきます。一方で、あの優等生の東野くんが、一人で塾の合宿先の八丈島から脱走したとの報せが淳司に入ります。それぞれ熱く過ぎていく、小学五年生の夏休み。汗ばむような夏休みの街を体感できる作品です。

1986年の現代を描いた作品ですが、僕の知っているその年代と比較すると、やや感覚が古い気がします。いや、懐かしさがあるというべきか。時代に抗いつつ、変わってはならない庶民の生活を描こうとした作品なのだともいえます。過度のストレスから、胃炎と円形脱毛症になり、塾から逃亡して、全国を放浪しようとしていた東野くんに、さすがに「教育ママ」であった母親も折れました。淳司の仲介で、東野くんは商店街の子ども会に参加して活躍しはじめます。淳司の家では進学して会社員になるよりも、新聞販売店を継いでくれることを願っているし、淳司もまた労働の喜びを知って、新聞配達の仕事に興味を持つようになります。このあたりに、子どもたちが、受験勉強第一になっていく時代の趨勢を、なんとか引き留めようとする児童文学の主張が見えます。時代を描くだけではなく、拮抗しようという力を感じるのです。児童文学はどこまで変わらざるを得ない時代に対抗できるのでしょうか。ところで、淳司は、ファクシミリ通信が発達したら、新聞配達の仕事はなくなってしまうのではないかと懸念していますが、周囲の大人たちから、そんなのは「杞憂」だと言われます。ここから四半世紀が経った現在、新聞も電子化の波が、大分、押し寄せてきています。時代は確実に変わりますが、そこに抗い、大切なものを守ろうとする姿勢も児童文学の描くべきものではないかと思うのです。