出 版 社: ポプラ社 著 者: 上条さなえ 発 行 年: 2004年12月 |
< あだ名はシャンツァイ 紹介と感想>
ヤングアダルトや児童文学作品の紹介サイトなどと称しながら、ティーンの方にこうした文章が読まれているという可能性をほとんど信じていません。希望としては、カモン十代で、真剣シャベリ場(昔、そういうテレビ番組があったのです)的な意見の交歓があって、大人と子どもの交差点として機能してみたいと思っているのです。いや、会社っていうのはさ、学校と違うわけよ、なんて、訳知り顔で、社会の先輩面をしたいわけではありません。会社というのも学校みたいなものです。ほら、HRや学級会で手をあげて発言する子が浮いてしまうように、会議でしゃべりすぎて、後から「あいつ、空気が読めてないよ」なんてささやかれたり、逆に根回ししすぎて陰険に思われてしまったりして、ひそかに傷ついたりしているのです。無論、大人ですから、人前では涙も見せず、ストレスをためていたりするのですが、いや、それでも、会社は、「教室という場所」よりは、風通しがよかったり、アットホームだったりします。それに比べると、子どもの皆さんは、やはり逃げ場が少ないような気がするのです。人よりちょっと純粋でズレていて傷つきやすい子たちは、「学校」という困難な現実をどうやって生き抜いているのでしょうか。世渡りベタで生きにくさを抱えた子どもが、ファンタジーの異世界ではなくリアルな場所で幸福になれる、そんな児童文学もいいな、と思うのです。
シャンツァイ(香草)と、あだ名で呼ばれる女の子。お父さんは日本人だけれど、お母さんは中国人。中国から、日本の小学校に転校してきた青木愛という子は、ちょっと変な女の子でした。いや、本当に変なのは、他の生徒たちかも知れないけれど。純粋で、真っ当な子が変に思われてしまうのがこの「日本の教室」という場所です。みんな「どーでもいいじゃん」って雰囲気の誰も手をあげない教室で一人だけ熱くなっている真面目な女の子。でも、クラスの他の子たちからは、いい子ぶった、クサイ、ウザイ奴って思われてしまう。背筋をのばして、どんなにクラスから浮いてしまっても、しっかりと前を見る、負けていない子。シャンツァイ(香草)は、中華やエスニックでは良く使われる素材だけれど、独特の臭いとクセがあって子どもの口にはちょっと合わない。そんなシャンツァイ入りの餃子が名物なのが、愛のお父さんの中華料理店『シャンツァイ』。僕、国友勇気は「どーでもいいじゃん」の一人で、学校の勉強よりも塾が大事。他人のことよりも自分が大切。だから、友だちの太郎がクラスでいじめられてパニック障害になり、登校できなくなってしまったときも、守ってあげることができなかった。僕にできるのは、太郎と携帯電話でメールを交換したり、ひそかに外で遊ぶことだけ。そして『シャンツァイ』で、二人で餃子を食べること。愛は、中国には学校に行きたくてもいけない子が沢山いるのに、太郎が学校に行けないことをもったいないという。太郎を毎日、迎えに行って、なんとか保健室登校ができるようにした愛。僕は、愛のそんな真っ直ぐな瞳が好きになってしまう。だけれど、どんどんとクラスから孤立してしまう愛。僕は、思う。愛をひとりぼっちにさせたくない。大切な人を守りたい、もう誰も裏切りたくない。そのためにはクラスから浮いたってかまわない。さて、教室という場所は「愛」と「勇気」を受け入れてくれるのか。リアルな教室の中で「真っ当な心」が勝つことはファンタジーなのか。是非、続きは読んでみてください。いいなあ、と思える読後感を味わえるはずです。
純粋な初恋の切なさが、いっぱいつまった作品です。主人公の国友勇気の平凡だけれど深く優しいお父さんもいい感じだし、韓国スターに血道をいれあげて、いつも不平ばっかり言っているお母さんも、本当は純粋なものを求めていたりする人。善良な青木愛のお父さんやお母さん。優しい心をもった太郎。ちょっと意地悪なクラスメートも、一人一人なら、悪い子たちではない。でも、今の社会や学校という場所が、ひいては日本という国が、すこし寂しいところになってしまっていて、つまらない「集団の場所」を作ってしまうということ。それでも、皆が本当に求めていることはなんだったんだろう、と思わせる物語です。カモン十代、できれば、感想を聞かせてください。僕はオジサンだけれど、もう少し強くなって、人に優しくしたいって、思ったぜ。