セカイの空がみえるまち

出 版 社: 講談社

著     者: 工藤純子

発 行 年: 2016年09月


セカイの空がみえるまち  紹介と感想 >
混沌を混沌のまま受け止めることは難しくて、意識的にバイアスをかけないと心の許容量を越えてしまうことがあります。なので、ついぞ色眼鏡で見て、フィルターをかけ、理解しやすいものにしてしまいがちです。例えば、この作品についても、「ヘイトスピーチなど外国人が差別を受けている現状を目の当たりにした中学生の女の子が、同級生の混血の少年と交流することで、真の国際理解とは何かを求めていく社会派の物語です」などというと、間違ってはいないだろうけれど、見失われてしまうこともあります。わかりやすいように分類して、レッテルを貼る。それは時に、見落としたり、見下してしまうこともあるものです。そこに他意がないとしたら、逆に恐ろしいことかも知れません。正しい答えはいくつもあっても良いし、正解がないことが正解であると、そんな可能性を考慮することが大切です。端的に言うと、多様性を受け入れられる、柔軟な魂が必要だということでしょうか。この作品について、安易な言葉でイージーに語ることをしないようにと思い、やや回りくどい前置きになっているのは、それだけの深意がここにあるからです。偏狭な方向に進んでいくこの社会に抗う、祈りと願いに満ちた、今となっては懐かしい児童文学の姿勢と、強い意志を見ることのできる作品です。

新大久保。その一角は韓国をはじめとして、中国や東南アジアなどを色々な国の人たちが店を並べ、働いている街です。韓流ブームの頃ほどの賑わいはないものの、雑然として活気に満ちた場所。まさに混沌の巷。中学二年生の女の子、藤崎空良がそこで見たものは、韓国人や中国人に憎悪をぶつける日本人のヘイトスピーチでした。自分たちの信じる正しさを振りかざし、人を平気で傷つけ追い込んで行く姿に、空良は胸騒ぎを覚えます。それは、学校でも感じたことのある苦い感覚でした。それでも空良が再び、新大久保に向かうことになったのは、新宿の職業安定所で失踪中の父親を見かけたという言葉が気にかかったから。そして、同級生の男子、高杉翔との関わりができたためです。翔もまた家庭の事情を抱えていました。新大久保の外国人ばかりが住むアパートで一人暮らしをしているのも、不仲な父親と距離を置くため。母親がどこか他の国の人であるとわかっていながら 、それ以上、深く知ることを恐れている翔。それでも、多くの外国人や大人たちと関わる暮らしの中で、翔はその視野を拡げ、 公正な心を育まれていました。新大久保から越境して、明大前にある野球の名門である公立中学校に通っている翔は、自分本位にふるまうチームメイトたちと反目し合うこともあります。空良はそんな一本気な翔が気にかかるようになっていきます。空良も新大久保の人たちと関わる中で、自分が知る世界とは違う空がここに広がっていることを感じます。二人はそれぞれ悩みを抱え、単純に出せない答えを模索しながら、すれ違い、時に、互いの存在に励まされていきます。背中を向けながらも温かさを感じている。そんな距離感がまた素敵な余韻を与えてくれます。心が狭くなっていくばかりのこの世界の中で、どこか同志めく繋がりを持った中学生二人が、まだ社会とのバランスがとれないながらも、それぞれ自分を見つめ、広がる世界を希求していく。そんな決意に満ちた清々しい物語です。

この四半世紀の間、国内児童文学では、子どもが、子どもなりの結論を物語の中で出し、この世界を見切ってしまう作品が台頭してきたと感じています。子どもが、世知辛くなってしまったこの世界を諦めて、それでも受け入れるところから、新しい世界が始まる。そこにはもちろん希望が描かれるのだけれど、児童文学こそが世の中の趨勢に抗おうという気概は失われたと思っていました。この作品には、学校や社会の閉塞感に風穴を空ける働きかけを児童文学が担うという意志があります。主人公の二人は、その経験から、人の心の痛みがわかる繊細な感覚を持っていて、それゆえに周囲や世の中に対して、普通の子どもたちよりも傷つきやすいのです。ただ、そこで引き退らずに、自分の意志を示します。正しさよりも優先すべきことが、この世界にはある。優劣や損得だけでは計れないものがある。学校や社会で、それを言うことは勇気が必要です。そんなことはバカげた戯言にしか聞こえない。それでも人間にとって大切なことなのだと、声を上げていくのです。ある時、僕は若い人が「人に優しくすると損だ」と言ったことを横で聞いていて、その価値観にちょっと愕然としたことがあります。序列や権威や社会的優劣や良い成績がつくことだけがすべてではない。そんなつまらない価値観で、わかりやすく簡単に世の中を見切って、多くの大切なものを取りこぼしてしまうこともあるのではないか。混沌を混沌のまま受け容れること。広い世界を小さく理解しないこと。小さな物差しで測らないこと。それを伝える児童文学の理想と意志は、かつて天使で大地をいっぱいにしたように、セカイの空をどこまでも拡げていけるはずだと思うのです。