金色の流れの中で

出 版 社: 新日本出版社

著     者: 中村真里子

発 行 年: 2016年06月

金色の流れの中で  紹介と感想>

戦争について描かれた物語であり、タイムファンタジーであり、情感溢れる児童文学でもある、というと朽木祥さんの『たそかれ』が思い出されます。この作品もまたそうした要素が見事に混淆した、新しい形の戦争児童文学です。子どもの視線でかつての戦争を見つめ直す、というのは、現代に描かれる戦争児童文学の常套ではあるのですが、この物語が置かれている現在が1964年という戦後20年に満たない時間域であり、そこにいる子どもが感じているかつての戦争は、より生々しいものでした。もう戦後ではないと言われて久しく、東京でオリンピックが開催されるほど復興した日本ではありながらも、傷痍軍人が街角で施しを求めていた時代。実際、自分が子どもであった、もう少し後の1970年代後半にもまだ、渋谷の駅前で伏せている傷痍軍人の姿を見かけることがありました。彼らは自分たちのことを「忘れられたくなかった」のだ、というこの物語の言葉は、その存在をどう解釈していいのかわからず戸惑っていた子どもの頃の気持ちが、ふいに腑に落ちたような不思議な感覚がありました。まだ「戦後」は終わっていません。その感覚を今も変えてはならないのかも知れません。1964年の小学六年生である木綿子が知った戦争。時間の流れの中で変わっていくものはあるけれど、揺らいではならないものもまたあるのです。魅力的な要素が沢山詰った作品です。

戦争に出兵していた時、大陸で中国人の首を刎ねたことを何気なく夕食時に口にする父親に、木綿子は衝撃を受けます。父親は悪びれた様子もなく、母親もまた、それがあの時代では当然のことだっだと言います。年長の姉たちとは違い、割り切って考えることのできない木綿子は、一人で父親が行った「殺人」について考え続けます。学校で友だちと上手くいかず、家でも疎外感を味わっている木綿子が、話し相手に選んだのは、川沿いの橋の下に住む不審な男性でした。いつも川面を見つめている彼が探しているものに心当たりがあった木綿子は、次第に親しく言葉を交わすようになっていきます。まだ若い青年である彼がここにいるのには事情がありました。会話の端々から感じる違和感。やがて彼がこの時代の人間ではないということを木綿子は知らされます。後の時代を知る彼が与えてくれた警告は、この先の未来に対する、今の時代の子どもである木綿子の責任です。時代に流された人々が作る未来はどんな世界になってしまうのか。やがて未来で木綿子は青年の正体を知ることになります。我々が良く知る時代の道のりを、何を思い木綿子は生き抜いて行ったのか。そして、木綿子たち大人が責任を負うべき未来がその先にあります。

1964年の時代感がリアルなのは著者が1955年生まれで、まさに子どもの視点であの時代を感じとっていたからではないかとも思います。当時の大人の男性の多くは出征して過酷な経験をしています。実際、人を殺すという行為を自分の中でどう消化してきたのか。リアルタイムの児童文学に描かれている当時の大人たちを見るかぎりでは、戦後を生き抜き、今を生きることに懸命です。この点について、改めて言及する作品はもう少し時代を経てから登場します。この物語の新機軸は当時の大人たちがどのように戦争体験を受容していたかを子ども視点で捉えたことで、さらに未来で大人になる子どもに疑義を突きつけ、責任を問うていることです。反戦意識を涵養する新たな試みがここにあります。また、そうしたテーマ以上に、木綿子の心の動きが豊かに描き出されている児童文学として豊かな表現が魅力的です。家族との関係や学校での同級生や先生との関係など、考え深く、一人でもの思いに沈みがちで、やや周囲からズレてしまっている子どもの内面世界。タイムカプセルを開けたような、気持ちのアーカイブがそこにある。そんな感慨深い作品でした。ちなみに落合恵子さんが解説を書かれていますが、ああ落合恵子さんだなあ、と思う変わらなさも含め、とても濃い一冊だなと思います。装画が今日マチ子さんというアンバランスもまた良しでした。こうした戦争児童文学の新しい試みもアリですね。