出 版 社: 偕成社 著 者: 魚住直子 発 行 年: 2018年10月 |
< いいたいことがあります! 紹介と感想 >
小学六年生の陽菜子は、お母さんに「いいたいこと」をうまく言えません。というよりも、話をしてもわかってもらえないのです。行きたくない塾に行かされて、友だちと遊ぶことができないし、そもそも中学受験自体に疑問を感じています。家の手伝いをさせらることもそうです。お兄ちゃんは部活が忙しいからといって、どうして自分だけ洗濯物をとりこんで畳んだり、食器を洗わなくてはならないのか。そんな不満をためこんでいた陽菜子は、ある日、家の中で一冊の古い手帳を見つけます。そこには自分の心の中を写したような言葉が書かれていました。『わるい親は、子どもを見ていない。見ていても外がわだけだ。心は見ていない。見ていないくせに、自分がさせたいことをおしつける。』丸みをおびた女の子が書くような文字で綴られた一文は続き、それはすべて陽菜子のお母さんに対する気持ちを言い当てていました。『わたしは、親に支配されたくない。わたしは、わたしの道を行きたい。』その言葉に衝撃を受けた陽菜子の前に、スージーと名乗る少し年上の少女が現れます。お母さんに対する陽菜子の想いを理解してくれるスージーもまた、自分のお母さんへの不満を抱いているというのです。手帳を開くとどこかから現れるスージーに励まされ、陽菜子は自分の行きたい道を進みはじめます。まずは塾をサボるところから、というのはなんですが、それもまたお母さんとの最終対決のための前哨戦です。さて陽菜子は自分のいいたいことをお母さんにわかってもらえるのでしょうか。
児童文学作品が、こじれた親子関係のケーススタディのように、色々な事例を見せてくれます。同工異曲の作品が多いものの、それぞれの落としどころは違って興味深いテーマとなっています。歩み寄れるケースもあれば、物別れになることもあり、しかも、それでもかまわないと肯定されたりと、多様化が進んでいます。注目すべきは「かたくなな親」という、物語を動かす起点となる人物像です。世の中がわりとリベラルになってきているのに、国内児童文学の世界で幅をきかせているのがこうした親像なのです。この物語の陽菜子の母親は、大学を出て大企業に勤めていました。エリートの夫と結婚し、二人の子どもを育てながら働いていたものの、夫の転勤に伴い退職。自ずと関心は子どもの教育に向かうものの、どこかくすぶった気持ちを抱えています。男性中心の社会で自分を犠牲にしたことや、自分自身が厳しい母親に、親の意向に沿うように育てられたこと。そこに忸怩たるものを感じながらも、息子を甘やかして家事をさせず、娘にだけ押しつける。それでも、その程度の家事は、かつて自分がやっていたことに比べれば、たいしたことではないと思っているのです。こうしたお母さんの気持ちが解放されないかぎり、親子の融和はないと思います。要は親世代の心の問題なのですよね。ここに深い闇があります。
同工異曲の手練を味合うということでは、この物語には、もうひとつ類型パターンが活用されています。お母さんが実家から古い荷物を持ってきたあたりからバレバレの展開ですが、スージーはお母さんの「少女時代」です。自分のお母さんへの不満を手帳に書き綴って我慢していた少女の頃の気持ちを、大人になったお母さんは忘れています。自分の母親の少女時代と出会う物語といえば、山中恒さんの『なんだかへんて子』(映画『さびしんぼう』の原作)が思い出されます。タイムスリップものではなく、お母さんの少女時代がふいに現代に現れるというパターンも一緒で、子どもは無論、それが自分のお母さんだなんて気づかないのです。この物語では、スージーが陽菜子の理解者となり、自分自身への反逆を唆かすあたりが楽しいところです。お母さんが手帳につなぎとめられていた過去の自分と再会するあたりがクライマックスですね。かつては自分の母親の横暴を批判していたこのお母さんが、家族や社会との関係性の中で、同じようなかたくなな人になってしまった要因を考えさせられます。そして、子どもの理解者然としていられる、お父さんのズルさみたいなものも感じてしまうのです。このところの国内児童文学の仮想敵は、同級生女子のやんわりとした底意地の悪さか、両親どちらかの心のアンバランスです。なかなか社会的なものに目が向いていないような気もするのですが、ある意味、人が「そんなふうになってしまう社会」を浮かび上がらせ、見せてくれているのかも知れません。