ミッドナイト・ステーション―真夜中の駅

出 版 社: 岩崎書店

著     者: 八束澄子

発 行 年: 1987年10月

ミッドナイト・ステーション―真夜中の駅  紹介と感想 >
真夜中の駅で、単身赴任のお父さんが東京から帰ってくるのを待ちわびている家族がいます。時刻はもう午後十一時をまわっていました。午後八時台の新幹線で帰ってくるはずだったお父さんが、なぜ現れないのか理由もわからないまま、それでも家族は待ち続けていました。お父さんは、息子の誠と同い年の十二歳の時、ずっと病気がちだった母親と死に別れ、家族を失くしています。やがて大人になり結婚して二人の子どもに恵まれ、自分の家族を持ち、地方都市に家をかまえることもできました。働きざかりの四十歳。鉄鋼メーカーの営業職として忙しく働き、家族が寝静まった頃にようやく帰宅する毎日。平日は子どもたちと顔を合わせることもなく、日曜日のだんらんだけが楽しみだったのに、東京への転勤を命じられてしまいます。とりあえず、単身赴任したものの、二つの場所で家計を支えるためには、頻繁に帰るどころか、電話代さえ節約しなければならず、家族との距離は広がっていきます。お母さんは、お父さんを夜の駅で待ちながら、遅い時間に行きかう会社員を見て、家族との時間を奪われているサラリーマンの悲哀を感じます。仕事が忙しく帰ってこれない夫の分も含めて、一人で子どもたちの面倒を見ているお母さんにも、日々の苦闘がありました。懸命に働き、家族を支えている両親を見ながら、子どもたちもまた、寂しい気持ちを抱えています。この物語では、家族がそれぞれの視点で、自分たちを取り巻く社会の矛盾を感じとっていきます。それぞれの立場がわかり、大人の苦衷も身にしみるし、子どもたちの切なさも胸に迫ります。だからこそ、お互いを思いやり、手を繋いでいく家族の姿には胸が熱くなるのです。お父さんが無事に帰ってくることを信じて、真夜中の駅で待ち続ける家族。この物語の終わりの場面は、家族のこれまでの軌跡と、培ってきた愛情の結晶として、美しく印象的に飾られていくのです。

「働きかた改革」が標榜され、長時間労働の撲滅が叫ばれている昨今(2018年現在)です。高度成長期やバブル期、不況の波を越えて、働き方に関する考えも変わってきました。誇りをもって働いている大人たちの姿を描き、その尊さを見せてくれるのが、デビュー以来、現在まで変わらない八束澄子作品の魅力ですが、同時に、社会の中で逼塞し、人間性を疎外される労働者の姿を訴える姿勢も強く持ち合わせています。この物語のお父さんは、夜、夢でうなされて「ラインがストップする!」と叫んで目を覚まします。自動車会社の部品工場を担当している鉄鋼メーカーの営業マンとしては、納品が滞りベルトコンベアの生産ラインをストップさせるわけにはいかないのです。働く人は誰しも仕事上の心配事を抱えているわけですが、眠っていてもそこから自由になることはできません。息子である誠は、転校生の三上君のお父さんが突然、心筋梗塞で亡くなったことを知ります。社命での転勤を繰り返していた三上君のお父さんは働き詰めで、子どもと遊ぶこともできないまま亡くなりました。仕事に殺されたのだと近所の人たちが噂する傍らで、会社の人たちに、突然、死んだことで迷惑をかけたと詫びる三上君のお母さん。ここには、人間を疎外する社会への怒りが、強く描かれています。子どもたちにはたくさんの問題が降りかかります。ペットの小鳥は逃げ出し、犬も事故に遭い死んでしまう。むやみに不幸に襲われるそんな時、一体、誰が子どもたちの心を支えるべきなのか。家族のもとに帰りたいという気持ちを抱きながら、仕事をすることで、家族を守ろうとしているお父さん。この二重拘束は、いつか人間を破壊するでしょう。それでも、働きながら生きていくしかないのだなと、途方に暮れるのです。

前回、この作品を読んだのは十数年だったかと思います。今回(2018年現在)、改めて読んでも、その鋭敏な感覚は色あせず、突き刺さってくる鋭さは変わらないなと思いました。家族や親子の関係性は、三十年以上前と現代でも、それほど大差がないのかも知れません。労働環境自体があまり変わらないからなのだろうと思います。ただ、コミュニケーションのための通信環境やインフラは随分と変わっていて、この物語で家族の関係構築の障害となり、ゆえに物語を動かすことになった「不自由さ」が解消されていることに改めて気づきます。八十年代はスマホや携帯どころか、後にブームになるポケベルでさえ一般的ではありません。またインターネット普及以前で、メールもなければ、ネットを経由して安価に遠隔地と連絡を取り合う手段もなく、公衆電話から地方に電話をかければ、高額な電話代がかかった時代です。では、人はどうやって連絡を取り合っていたのかと不思議に思われるかもしれませんが、その分、人間にはテレパシーなどの超能力が発達していた、というのは、今の子どもたちには内緒です。伝書鳩の存在についても秘密にしておいた方がいいです。冗談はともかく、今と比べれば、不便ではあったことは確かです。駅の伝言板に残した、読まれるかどうかもわからないメッセージの頼りなさなど、今では考えられないことかも知れません。ただ、連絡がつかない人を信じて待つことで育まれたものは確実にあったと思います。安易に連絡が取れないことで、今では考えられないようなドラマや、悲喜劇が生まれました。そう考えると、この物語の幸福な結末は、あの時代が導いてくれたものだったのではないかと、そんな風に考えてもいました。不便な方が幸せだった、なんてことは絶対にありませんが。