理科準備室のヴィーナス

出 版 社: 講談社

著     者: 戸森しるこ

発 行 年: 2017年08月


理科準備室のヴィーナス  紹介と感想 >
綿矢りささんや大島真寿美さんの初期作品のように、中学生を主人公にして純文学のエッセンスを醸成しながら結ばれた一般小説があります。こうした作品の中にも児童文学の香りを感じることがあります。逆に本書のように児童文学から一般小説に越境した作品には、軸足が児童文学にあることの効用があると思っています。本来、児童文学の中に見てはならない、際だった感覚。人間存在の不合理な衝動や、矛盾、説明がつかない行動。唯美的な作品のみならず、およそ「文学」と言われるものの粋はそこにあると思っています。心の綾の不可思議さ。これにすべて説明をつけてしまう「わかりやすい」児童文学作品もありますが、やもすると「つまらない」ものになりがちです。端的に言うと、本書は文学への誘いに満ちた児童文学です。理由はわからないがドキドキするもの。そんな感覚を児童文学として読んでいる背徳感もまた蠱惑的です(僕は児童文学の魅力を、形にならないモヤモヤした子ども心が描かれていることにあると感じています)。執着や拘泥、愛着や嫌悪など、人間の心の機微を突き詰めてくと、およそ現世的なことはどうでも良くなってしまうものです。中学生がそうした感覚に浸ってしまうと、もはや「普通」ではいられず、教室では浮き上がらざるを得ないはずです。一方で、この物語はカウンターに「ごく普通」の感覚を描いているため、実にバランス良く、「バランスの悪いもの」を照射して見せてくれます。中学一年生の女子生徒が理科の先生に「憧れ」を抱く物語です。好意を解体したところにある説明のつかない偏執や執着。ともかく、穿ち過ぎた児童文学の魅力を味わえる一冊です。

「大好き」の反対は「大嫌い」ではなく「無関心」、だとすれば、同じクラスの南野さんに嫌われていることは、彼女に興味のある瞳にとってまんざらでもない状態です。いつもクラスの中心にいる南野さんが執拗に瞳に意地悪をすれば、瞳はより南野さんの気にさわるようにふるまう。そんなアンビバレントな心性を抱えた、ちょっと変わった子である瞳が、出会ってしまったのが理科のヒトミ先生です。担任でもないのに自分のフルネームを覚えていてくれたヒトミ先生に関心を抱いた瞳は、毎週、金曜日に理科準備室を訪れるようになります。生徒の目の前で平然と自分一人でエクレアを食べるヒトミ先生の独自のペースに衝撃を受けた瞳は、さらに先生に惹かれていきます。自分が生徒の気持ちを惹き寄せてしまうことに自覚のない魔性の人である彼女に、瞳と、同級生の男子でやはり教室で浮き上がった存在である正木君は翻弄されていきます。ボッディチェッリの描くヴィーナス像に良く似ているヒトミ先生。独身だけれど子どもがいるという噂に、瞳の心は穏やかではられません。ヒトミ先生に好意を持ちながら、それを口に出すことはできない二人は、それぞれのアプローチでヒトミ先生への気持ちを顕していきます。もはや「つきあう」とかどうとか、一般的な恋愛の尺度を越えたところで展開される、純粋な気持ちが発現した物語です。中学校の教室での女子同士の繊細な人間関係の渦中にいながら、異質な感受性を持つ瞳のスタンスがユニークであり、人間にとっての真理を穿っていく唯我独尊の姿勢が心地良いところです。けっして自分を卑下せず、ただ自分の心の美に殉じる潔さ(なのでLGBT枠で括りたくないのですね)。物語後半の南野さんとの関係性の変化もまた見どころです。万事、心が動くこと、がすべての起点であり、その動きを粒さに捕捉するこの物語空間に是非、酔って欲しいと願うところですね。

心ここにあらずの人の心を手繰り寄せようとすることは、雲を掴むような行為です。かといって、人の心に処置できない爆弾をおいてしまいたい、という危うい欲求を持つのは、かなりの過激派です。あらかじめ叶わない願いだからこそ価値がある。そう考えるのは擦れた感性かもしれませんが、届かない想いの切なさもまた魅力があるものです。ボッディチェッリのヴィーナスに憧れる、といえば、井上涼さんの『委員長はヴィーナス』が想起されます。この「うわの空」のヴィーナス像には、本作とどこか通底するところがあり、また、ヴィーナスに向けられている女の子の「視線」こそが「物語られているもの」だという点も共通しています。このあえかな感じは一体なんだろうね、と考えながら、言葉で詰めていく感想書きの作業が楽しいところなのですが、力足らずで言語化できない歯がゆさもまた良しです。もうひとつ思い浮かんでいたのが、大島弓子さんの『ロストハウス』(その標題作)です。「他人の汚れた部屋に入りたい」という妄執のある女の子の物語ですが、彼女を翻弄する大人の女性への畏怖と喪失に、どこか共通する感性をみたような気がしました。そうなんだよなあ、自分は大島弓作品子を凌駕するような感受性のおののきを児童文学で読みたいんだよな、と改めて思いました。