いつまでもここでキミを待つ

出 版 社: ポプラ社

著     者: ひろのみずえ

発 行 年: 2010年01月

いつまでもここでキミを待つ  紹介と感想>

背が高く、大人びて見える十五歳なんだけれど、大人の女性というよりは、ただオバさんっぽいという自己認識を中学三年生の女子、奏(そう)は抱いています。要はさえないタイプなのです。容姿も学力も誇れるものではなく、唯一の特技は絵を描くこと。それもまた、美術系の高校受験のために美術スクールに通いはじめると、いくらでも自分よりうまい子たちがいることを思い知らされる。こうなってくると心の拠り所がないわけです。芸術系に進むことは母親の強い望みであり、そこから下りることもできないという拘束の中、限界を迎えつつあった奏のメンタルが、思わずとってしまった行動の一部始終、というのが本書です。学校図書館で子どもたちの人気が高いと聞いていますが、ここに、もどかしい恋愛要素があるからではないかと思います。突発的な家出を試みることになってしまった奏が、その旅先で出会った少年は、ひとつ歳下で、当初は真面目な奏とはソリが合わない、ちょっと不良タイプ。反発する二人なんだけれど、お互いを棚に上げて、それぞれの子どもっぽい拗ねた気持ちを汲みながら、惹かれあっていくプロセスなど、得恋の甘さがあるのです。世間知らずのごく真面目な子で、これまで親の言いつけを守ってきた奏が、好きになったら命懸けモードに転じてしまう危うさも見え隠れしていて、それもこれもまた青春なんだけれど、やはり冷静じゃいられないところが良いのです。歳下の真っすぐなワル、というキラーな存在にグッときてしまう真面目な中学生女子。どこに向かって良いかわからなかった奏の心の暴走が、この出会いによって交通整理され、進むべき道が見つかるという帰結は望ましいのですが、心配は心配でしょうねご両親は。そんな危うさを残すあたりもまた稀有なロマンスではあるのです。そして尾道ロマンです(大林宣彦作品がけっこう語られます)。 

夜、遅い時間になっての美術スクールからの帰り道、中学三年生の女子、奏は、横浜駅から家へと向かう東海道線ではなく、誤って、寝台特急サンライズ出雲号に乗っていました。試験のプレッシャーに苛まれ、また自信をなくしてばかりの毎日にくたびれていたのか。いえ、誤ったのではなく、歌にも聞く「夜行列車」に、思わず飛び乗ってしまいたくなるような、そんなメンタルだったのです。次の停車駅は熱海。我に返って、慌てふためく奏でしたが、たまたま貯金をするために持ってきていたお年玉を貯めたものが数万円ある。そこで寝台切符を購入して、とりあえず一晩過ごし倉敷まで行って、翌朝、家に戻る気持ちを固めます。とはいえ、心配しているだろう両親に電話することもできないでいたのは、このまま元の世界に戻ってどうするのか、という閉塞感からの解放を求める気持ちでした。おどおどと心配しながら、様子をうかがい旅を続ける奏には、すぐ近くの個室の少年が目につきます。龍の刺繍の入ったジャージ。ゴールデンレトリバーのような髪の毛。ナイフのような鋭い言葉遣いをするその少年は、一人旅なのか、まさか家出なのか。人の目を気にしないその態度が、奏にはどこか気にかかります。それでも、会話をするとなれば、ぞんざいな口調で、奏の世間知らずをバカにする。一つ歳下なのに、その少年、カズマは随分と世慣れていて、倉敷に降りたっても泊まる場所も見つけられない奏を、面倒そうにしながらも助けてくれるのです。どうやら、カズマにも何か家に帰れない事情があるということが、奏にもわかってきます。父親に反抗して家を飛び出し、転がり込んだ友だちともトラブルになったらしい。奏とカズマは宮島や尾道を一緒に巡りながら、互いが抱える苦しみや哀しみを知り、少しずつ気持ちを近づけていきます。とはいえ、そんな旅が長く続くわけもなく、ちゃんと追手がかかっていたのです。奏を迎えにきた両親にカズマが責められるのを、必死にかばう奏。もっと一緒にカズマと旅を続けたいと奏の本心は疼きはじめていたのです。

児童文学における家出の物語はいつまでコンプライアンス的に許されたか、ということを考えていました。少なくとも現在(2024年)では家出礼賛はないし、家出した子どもを泊めたりしたら条例違反に問われるわけです(2016年で、日本のすべての自治体でそうなっています)。『それぞれの旅』(2003年)あたりが限界点で、2010年代になると『ミクロ家出の夜に』(2010年)のような変化球的な作品しか許容されないか、と思いきや、本書はわりと正統派家出感覚のある作品で、一方で、旅先でちゃんと通報されてしまうあたり、時勢も正しく反映されてしまいます。無賃乗車もしませんし。そして主人公が「これは家出ではない」と言い続けるあたりに、推奨されない家出物語ではないというエクスキューズもあって時代感じるところです。もはや世の中は家出物語を許容しないのです。とはいえ、本書のように、旅のロマンあり、旅先の恋あり、それがまた「禁じられた」家出の先にあるからゆえの背徳感もあるし、ちょっとワルな少年とくれば、ここに広がる世界線の魅力は確定的です。かつて『家出すすめ』の中で寺山修二は、「自分とは誰か」と知ることがまず「こころの家出」であると、家出のスピリットを推奨していました(実際の家出ではなく)。まあ、読書自体が心の家出みたいなものですよね、というまとめ方をしますが、ハイリスク、ハイリターンであるのも人生です。そんな思い切りもなく、くすぶり続ける人生もまた文学的ですが。