いのちのつぼみ

出 版 社: 偕成社

著     者: 志津谷元子

発 行 年: 2024年09月

いのちのつぼみ  紹介と感想>

子どもの頃に家族や親族、特に親しい友人などが、衝撃的な亡くなり方をした場合、必要とされるのは専門家による適切なメンタルケアです。良かれと思って与えられる慰めや励まし、同情などが、逆に当事者の心理に悪影響を与えることもあるからです。とはいえ、そこに医療的な正解を求めると、物語(文学)を離れて問題事例のケーススタディに近づいていきます。長谷川まりるさんの『杉森くんを殺すには』では、友人が自死したという事態に、彼女を救えなかった呵責を感じて迷走を続ける主人公が描かれ、実に物語的な心の戸惑いが繋ぎ止められました。一方で、巻末に臨床心理士による解説が付記されたことが、物議を醸しました。物語の外側に示されたものが、本編の鑑賞に反作用するのです。海外の作品であれば、こうした題材では、カウンセリングやグループセラピーが物語の中で行われていることが常套であり、適切なケアが行われつつ、その先にあるものが描かれます。ここは国情の違いもあるのですが、国内作品では、物語的な帰結が純粋に描かれることが一般的かと思います。つまり、漱石の『こころ』を、友人の自死に対してのメンタルケアの失敗例として捉えることなどないように、身近な人のいわくつきな死を、どう受け止めて運命と和解するかが問われるのが日本の物語の現状なのかと思います。とはいえ、現代ではコンプライアンス的な正しさも求められてしまうために、より複雑になるのですが、やはり物語は「物語としての正解」を考えさせるものです。喪失や哀切はあっても前を向いていくことは理想ですが、スイッチを切りかえるように明るくふるまうことは難しいものです。たとえ物語であっても、急に顔は上げられません。胸に疼痛を抱えながら生きることも人を悼む営みですが、青春を謳歌すべき年頃の幸福とは距離があります。ということで、本書の迎える帰結については、賛否があるだろうと思います。僕としては、これは「物語」としては、かなり正解に近いのではないかと感じていますが、同時に主人公に適切な心の治療が施される現実的な世界線も想像していまうのは、人の心を救う力を見出したいからかも知れません。

はるかの六歳歳上の従姉妹の芽久実(めぐみ)が、東京に引っ越してくることになったのは大学進学のためです。山口県から一人、上京する十八歳の娘を心配した彼女の両親は、親戚の家の近くに住むならという条件で、芽久実を送りだしたのです。はるかとしては、幼い頃に会った以来の芽久実との再会でしたが、その誠実な人柄にすぐに打ち解け、まるで姉ができたように、親しく付き合うようになります。芽久実の大学入学と同じく、この春、中学校に進学したはるか。小学校以来の友人である咲希(さき)と一緒に、芽久実を訪ねては、色々な話を彼女から聞き出します。ガールズのトークは恋愛に偏りがちなものですが、芽久実にもまた片思いの人がいることを中学生女子二人は知ります。地元の先輩であるその彼に、偶然にも芽久実が再会したという話に、はるかもその恋の行方を案ずることになります。二人が上手くいって欲しいと思うものの、自分から芽久実が離れていってしまうことに、はるかは複雑な気持ちを抱きます。それでも時間の経過とともに、二人の距離が近づいていくことを、はるかは受け入れていくようになります。いつしか、はるかも中学二年生になった五月、事件が起きます。駅近くの踏切で起きた人身事故。その騒ぎを横目に家に帰ったはるかが知ったのは、事故に巻き込まれたのが芽久実であったことです。踏切の中で倒れた老人を救おうとして、電車に跳ねられ芽久実が即死したという事実に、はるかは衝撃を受けます。この事態を、はるかは受け止めきれず、泣くこともできないまま、芽久実のことを考え続けます。誠実で慈悲深く、その気質から人を助けようとして亡くなった芽久実と冷淡な自分を引き比べて、自己嫌悪に陥ることもありました。友だちの咲希が芽久実のことを忘れてしまったのか、何事もなかったかのように日常を過ごしていることにも、はるかは苛立ちを隠せません。鬱屈した気持ちを抱えたはるかには、人から寄せられる慰めも届かないまま、自分が生きていることの意味さえ見失っていきます。この後、はるかにはどんな転機が訪れて、この試練を越えていけるのでしょうか。

はるかが芽久実を失って陥ったメンタルクライシスは、自分が生きていることに不審を抱く方向で深刻になっていきます。事故の要因を自分が作ったわけではないのに、呵責を抱いてしまうのは、理不尽な死をどうにか受けいれるための屈折した適応でしょう。因果関係などあらかじめないのです。この心の歪みは、僕もまた覚えがあることです。やっていることは完全におかしいのですが、偏向したレンズで世界を見ていないと、バランスが取れなくなってしまうのです。はるかは、幼い頃に自分が大病から生還したことの意義を考えます。自分が生かされたことが、誰かにとっての歓びとなったであろうことを知り、自分の命もまた大切なものであることに思い至ります。いのちのつぼみは芽吹き、花を咲かせ、人を幸福にするものかも知れない。とはいえ、命の大切さを思うたびに、芽久実の失われた命を惜しむ気持ちがはるかには募るのです。これといった転機を迎えられないまま、子ども時代が時間切れになる、という帰結こそが、僕は可能性が高いと思っています。失われたものは取り戻すことはできないし、その痛みを受け入れて、一転して前向きになることは俄にはできないものです。事故後一年経っても、まだ心の整理がつかない、はるかの途中経過のまま終わる物語は実にいたわしいのですが、人を悼むことの純粋な気持ちに、感じいってしまうのです。子どもたちは、どうやって、身近な人の死を乗り越えたのか。物語は色々な答えを見せてくれますが、いずれにせよ時間がかかるものです。静かに回復していく主人公に心を寄せ、見守る読書もまた、その答えを言外に体感できるものではないかと思います。