すこしずつの親友

出 版 社: 講談社

著     者: 森埜こみち

発 行 年: 2022年06月

すこしずつの親友  紹介と感想>

血がつながっていたり、いなかったりする、若かったり、年配だったりする、おじさんだったり、おばさんだったりする人が、中学生だったり、小学生だったりする、男の子だったり、女の子だったりする子に、思わせぶりで深遠な話をして、色々と不思議な気持ちにさせる物語があります。本書はそうした一冊として、今後、長く語り継がれていくだろう異色作だったり、快作だったりする作品です。主人公は中学生か高校生の女の子です。彼女がお母さんの姉である伯母さんに「親友って、どうやったらつくれるの」とたずねたことに対する、長い長い回答がこの物語です。それは単に、親友を作るにはどうしたら良いのか、というノウハウを教えるものではないし、そもそも親友とは何かという定義を突き詰めるものでもありません。伯母さんは「すこしずつの親友」になら、すぐ出会えるのだと姪に教えます。旅行好きの伯母さんは、世界中を旅しています。そして、各国で「すこしずつの親友」と出会っていました。しかし、伯母さんの言う「すこしずつの親友」は、所謂、親友どころか、友だちでもないのです。知り合いですらない場合もあります。姪の質問を適当にはぐらかしたわけではなく、その質問の真意を穿つ回答が、伯母さんの口から語られていきます。それは真理と呼ぶには曖昧だし、姪の意識改革を促す箴言でもありません。それでも、ちょっと姪の世界観を揺るがすサムシングではあったのです。ともかく、伯母さんの話に耳を傾けてみてください。親友をもとめる気持ちとはなにか、その根源への旅が始まります。

「親友って、どうやったらつくれるの」という姪の質問に対して、伯母さんが披露したエピソードの数々は、旅行先で出会った人たちとの一瞬の交感です。伯母さんがネパールに行きヒマラヤの麓で出会った押しかけガイドになった貧しい少年。ちゃっかりした彼との束の間の交流の話は、特に大きな事件もなく、姪には伯母さんの話の核心がわかりません。伯母さんは次々に旅先で出会った忘れがたい人たちのエピソードを披露してくれます。オーストリアのエアーズロックのガイドの男性のつぶやきに、ふと共鳴したり、ミラノの空港でスーツケースをぶつけた男性のちょっとした気づかいに極上のやさしさを感じたり、エーゲ海を航海するクルーズ船で船員のユーモアのある一言にあたたかい気持ちになったり。旅先で心を動かされた瞬間を、伯母さんは「すこしずつの親友」との出会いだと姪に話し続けます。フランスにいる友人の結婚式のためにパリに行った伯母さんが、美術館で見た絵から、ゴッホとゴーギャンの友人関係について語るあたりは、より「親友」の深層を抉っていきます。二人の親密さは、実生活で一緒に過ごした時間だけではない。色々なカタチの友情があることを伯母さんは、実にぼんやりと示唆するのです。物語は、姪から伯母さんへの手紙で結ばれます。何かはっきりとしたサジェストがあったわけでない、伯母さんとの対話の中で、それでも姪は自分が親友を求める気持ちの本質を見つめていきます。自分が、ひりひりするような気持ちで孤独を感じていたことを。周囲と上手くやっていくことを求められる閉塞感を。そんな毎日の中で、伯母さんが見せてくれたものが、姪の世界をすこしずつ広げていく予感が灯されます。

「ララ ランラン 友だちはどこからやってくる」というご陽気な歌詞が未だに頭をよぎることがあります(岩谷時子さん作詞の『ともしびを高くかかげて』という曲です)。「友だちは 君次第 あなた次第」と続く鋭い展開は、「友だち百人できるかな」的世界観とはやや違って、ただ友だちを求める心に内省を促します。友だちがいないと不安だというのは、友だちが多い方が豊かな人生だという思い込みによる呪縛です。そうした価値観に惑わされるのも若さです。そして、本当に求めているものは、友だちの数でも量でもないということに気づいた時、友だち作りは次のステージに進むのかも知れません。「すこしずつの親友」は「親友の種子」です。「一瞬の心の交感」に内在しているのは「永遠の友情」の可能性です。「すこしだけ」ではなく「すこしずつ」という進行形であることにも意味があるでしょう。姪は、伯母さんとの対話の中で、自分の孤独と渇望を認識します。周囲と無理にでも協調して、友だちの数を稼ぎ、親友を作ることが自分の本意ではなく、孤独を分ちあえる交感のできる存在と相寄りたいのだと姪は気づきます。大人は、友だち関係を継続する難しさを良く知っています。そして、まだ相寄る前の孤独な魂同士の、孤独が解消される未然の状態をこそ愛おしんでしまう擦れた達観に陥ったりするのです。思春期の孤独への郷愁。おそろく、人は歳をとると孤独と上手く付き合えるようになってしまい、子どもの時のような孤独に悩まされる切実さを失ってしまうのでしょう。姪が物語の中で語っているように、思春期の当事者にとってはしんどい、蛹の時間ですが、ここに大人と若者の交感もまたあります。できれば、子どもたちには親友の種を豊かに育てていって欲しいと願いますが、思わせぶりな言葉で煙に巻きたいと思う気持ちが僕にもあります。そんなアンビバレントな気持ちに共鳴いただける方は「すこしずつの親友」です(おそらく)。