そばかす先生のふしぎな学校

Akademia pana Klesksa.

出 版 社: 学習研究社

著     者: ヤン・ブジェフバ

翻 訳 者: 内田莉莎子

発 行 年: 1971年08月

そばかす先生のふしぎな学校 紹介と感想>

子どもの頃にこの作品を読むことが出来た方は幸運だと思います。今回、復刊されるにあたって(この文章、2005年頃に書いたものです)、大人の僕がはじめて読んでも、そのわきあがる不思議なイマジネーションに心を奪われてしまったのですから。きっと、子ども心には強烈にその印象が刻まれたのではないかと思わせる一冊です。これは「そばかす先生」ことクレクス先生が活躍する、摩訶不思議でデタラメな世界観を楽しむだけでの物語ではないのです。この不思議なファンタジーの世界で夢心地に遊んでいるうちに、じわじわと『そばかす先生のふしぎな学校』という「物語世界の終焉」が迫ってくる危機感に焦がされながら、物語の中に内包された隠し玉の「入れ子」構造に驚かされるのです。まるでデタラメな夢の中で「こんな世界あるわけないよね」と夢の登場人物の一人が気づいたために、パン、と突然、目が覚めてしまって現実に戻ってしまうみたいに。いつか終わりのくる夢を、夢と気づかないまま、ずっと楽しんでいたいと思いながら、強制的に目を覚まさせられるようなあまりのエンディングに、ちょっと驚いてしまいました。なんということだろう。子どもの頃、この作品を読んだ方にはトラウマ本になっているのではないかと思うのです。

ぼく、アダム=ニェズグトカは十二歳。クレクス先生の寄宿学校にはいって半年がたった。普通の学校に行っているときは、まったくぶきっちょで勉強もさっぱりの生徒だったけれど、この学校にきてからは、毎日が楽しいことばかり。なにせ、なにひとつとして、まともなことがない。なにせ生徒は、全員、Aではじまる名前の男の子だけ。アダムが四人、アレクサンドルが五人、アンジェィが三人といった具合に。授業も先生の「魔法のような」力で、童話の中に入り込んで、「マッチ売りの少女」からマッチをもらってきたり、「長靴をはいた猫」から長靴を借りてきたり。でも、まだぼくは優秀なおこないをした生徒にだけ与えられる「そばかす」をもらったことがない。クレクス先生は、いつも床屋のフィリップスが持ってくる新鮮なそばかすを鼻の頭につけている。でも、ときどき間違えて、ひたいにつけたり、首につけたりすることもある。先生の飼っている人の言葉をしゃべるムクドリの(自称、元は人間の王子様だという)マテウシが代わりに授業をしたりすることもあれば、先生が片目を取り外して、いろいろなところに偵察に行かせることもある(なんと月世界にまでも)。学校の備品に命を吹き込んで人間のように会話をしたり、フットボールをしながら地理の授業をしたり、クレクス先生の学校では、色々な不思議な体験や冒険をしながら過ごすことができる。しかし、あるとき、床屋のフィリップスが、自分の息子兄弟を学校に入れたいと言い出してから、クレクス先生はだんだん、おかしくなってしまう。もともと自分の身体の大きさを自由に変えられる先生だったのに、なにか心配事を抱えて、だんだん大きくなれないようになってきてしまった。そして床屋の息子兄弟が学校にきてからというもの、この「クレクス先生の世界」の終焉が少しずつ始まっていく。クレクス先生にはひみつがあったんだ。床屋のフィリップスが息子と称して連れてきた「人形」に先生が命を吹き込んでしまったために、あの破滅を招くことになろうとは・・・。

実に楽しい作品なのですが、物語の収束の仕方が実に不条理な感覚一杯で、ただの子どものための童話ではないな、と思ってしまうのです。全体としては不思議で微笑ましいエピソード満載ですので、楽しんで読める作品であることもたしかです。僕が非常に好きだったのは、アダムが「犬の天国」に飛んでいったお話。そこは、死んでしまった犬たちが幸福に暮らしている世界。アダムも歓待されます。動物たちの偉人である「ドリトル先生」のチョコレートでできた銅像が立っていて、犬たちがそれを足元からペロペロなめてしまって、一体食べ終わると一日が終わり、また新しい銅像が作られます。「いじめっ子通り」では、犬に意地悪をした子どもたちが、自分たちの犯した罪を白状させられています。夢の中でこの世界に連れてこられた子どもたちは、後悔して、二度と犬いじめをしなくなるのだそう。ともかく面白いイマジネーションにあふれた作品でおおいに想像力を刺激されます。とはいえ、小学校中高年対象の作品でありながら、魔法のような力を持った「クレクス先生の世界の存在」という、そもそもの不条理に「物語」が踏み込んでいってしまい、驚きの結末を迎えるあたり、凄い作品だなあと吃驚してしまいました。いや、実に面白い作品なのですが、ちょっと驚きました。