りぼんちゃん

出 版 社: フレーベル館

著     者: 村上雅郁

発 行 年: 2021年07月

りぼんちゃん  紹介と感想>

クラスのマスコット的存在である朱理(あかり)。名前通りの赤ちゃん扱いにも飽いてしまって、もう六年生なんだから多少はお姉さんぶりたいという気持ちが現れはじめています。家にはしっかりもので優等生のお姉さんがいるので尚更です。そんなところに先生から転校生の面倒を見てくれと頼まれたのなら、悪い気はしないわけです。何も知らない転校生を助けてあげて、頼りにされる。しかも彼女は自分のことを「染岡さん」と名字に、さんづけで呼ぶのです。お姉さんぶる朱理を同級生たちはからかうけれど、転校生の理緒(りお)に信頼してもらっている手応えに朱理は有頂天になります。いつも朱理が話すことをにこにこして聞いてくれる理緒。すっかり仲良くなったつもりだったのに、他の同級生から理緒がお父さんと一緒にバトミントンをやっていたのを見かけたという話を聞かされ、自分が理緒の家のことや、好きなことを何も知らないことに朱理は気づき、恥ずかしくなります。これからはもっと理緒の話を聞こうと思った朱理でしたが、お父さんとのバトミントンの話を理緒に振った時、自分が「立ち入ってはいけない場所」に踏み込んでしまったことを感じとります。すぐにどなりちらす怒りっぽいお父さんの前で、いつも顔色をうかがっている理緒の日常を知ってしまった朱理。バトミントンだって、理緒は嫌なのにやらされているのです。オオカミと暮らしている「りぼんちゃん」。辛いだけの場所で我慢している理緒を想い、朱理はどうしたら彼女を救えるのかと真剣に考えていきます。

「大人はわかってくれない」ように「子どもにはわかりようもない」人生の深淵もあります。子どもは子どもなりにしか考えられず、その正しさは浅薄です。とはいえ、子どもには純粋な理想と情熱があります。どんなに無力でも、友だちのためにたたかい続けることを、朱理は自分に命じます。やみくもに懸命であるだけで、徒手空拳で大人に立ち向かっても効果はありません。それでも真剣な怒りをぶつけないと、人はNOを理解できないのです。嫌なことは全力で拒む必要があります。この、無鉄砲な真摯さが魅力の物語です。本書の帯に寄せられた、作者の『20代最後に贈る「祈り」の物語』であるという惹句についても考えさせられます。これは非常に青く一途な物語です。モラハラの父親と娘の関係を描く児童文学作品が頻繁に刊行されている現在(2021年)の国内児童文学界においても、このスタンスには潔く貴いものだと感じます。そこに作者の「若さ」が大きく影響していることは否めません。このテーマの物語では、かなり混み入った父親の心境が描かれ、娘自身が父親と同じ気質を自分に感じとる複雑な層を持った作品も多く、モラハラ父さんに対する作者のまなざしの向け方の違いが際立ちます。反発や受容や憐ぴんや同情がここには入り混じりますし、父親がいかに人間的に描かれるかもポイントです。本書では、その抱えている屈託や生育歴も含めて、ごく類型的なモラハラ父さんが登場します。一方で、父親は漠然とした「仮想敵」に過ぎず、憎むべきはこの世界に巣食う「オオカミ」であるという主旨がやがて浮かびあがります。子どもの視線が捉えるオオカミの姿もまた一面的ですが、その巨悪に果敢に闘いを挑んでいこうとする姿には動かされるものがあります。やがて自分の中のオオカミに気づいてしまうことが、物語の常套ではあるのですが、今はまだピュアな光をここに留めておきたい。そんな麗しさがあります。

僕もまた、子どもなりに、なんとかせねばと奮闘していた時間があったことを思い出しました。小学五年生の頃が家庭的にも学校的にも非常にハードで、メンタルケアなどもない時代ですから、客観的に自分の状況を把握できず、ただただ戸惑っていたことがありました。なんとか自助でやり過ごしたものの、この時間に未消化だった気持ちの影響が後に作用して、成人してからメンタルダウンなどを引き起こす要因になったかと思います。20代もまだ心の未整理の混沌の中にいましたね。歳をとると次第に記憶が薄れていくもので、痛みが中和されてきたことに安堵しています。とはいえ、あの鋭敏な感覚こそは稀有なものだと思うのです。若い作家の感性は面映く、子どもと大人とのあわいで、理想を求めるその真摯さに打たれます。自分が病んだ大人であるという認識のため、困った大人に対しては同情的です。とはいえ、困った人は、困っている人だと思いながらも、困った人とは関わりたくないとも思います。いびつな価値観を子どもに強要する大人は手に負えないし、ソフトな虐待であるために問題視されにくいことも厄介です。なによりも歪んだ哀しい存在である、その姿に自分を投影してしまい、見ていられないのです。いや、本当に子どもはタイムリーにケアされないとダメなのだと思います。「オオカミ」は誰の心にも生まれる。そこに寛容にならずに、純粋にNOを叫ぶ物語の煌めきに圧倒されること。希望を強く語り続けることの意義を思いました。