クレイジーカンガルーの夏

出 版 社: ソフトバンククリエイティブ

著     者: 誼阿古

発 行 年: 2006年11月

クレイジーカンガルーの夏  紹介と感想>

昭和40年代前半生まれの男子には懐かしい固有名詞が沢山登場する作品です。舞台は1979年の兵庫県南部。ノスタルジーとは、懐かしい場所などに対する郷愁を言うものかと思いますが、TV番組やコミック、音楽など、特定の記憶に結びついた名詞にもまた、それに出会った時の心の動きが思い出されて感慨深いものがあるようです。主人公は中学一年生。彼らが体験した世界は、同世代である僕にはニアリーなところもあって、「あの当時」の雰囲気を思い出しながら楽しめた作品です。もっとも1979年に放送された『機動戦士ガンダム』のファーストシリーズも、封切りされた『ルパン三世・カリオストロの城』も、オールタイムの定番になってしまった現在では「懐かしい」というような作品ではないのですが、オンタイムの衝撃もたしかにあったかなとは思います(実際は、『ルパン』や『ヤマト』や『未来少年コナン』も、初回放送時にはそれほど反響を呼んだわけではなく、再放送でジリジリとファンを増やしたというのも当時の空気感です。ちょっと実際とはブレているような感覚も本書にはあります)。それよりも、ノスタルジックなのは、あの中学一年生の時間に感じた、友だちとの共感や距離感や、ちょっと複雑に揺れはじめた気持ちなどの普遍的な感覚ですね。小学生の時間を終えて中学生になると、やんちゃな男子もまた、ただ、子犬のようにはしゃいでいるだけでもいられなくなってしまう。少なからず精神は成長しているようで、友だちのキビシイ家庭の事情が見えてきたり、大人の世間体や、たてまえや、格式ばった考え方に反発することも覚えるようになる。完全無力な子ども時代から脱して、少しは力をつけたのだけれど、まだまだ大人の世界の壁には届かない。きっと成長したなりのやるせなさもあるかな。そんな感じが一杯詰まった作品です。ライトノベルレーベルであるため、児童文学系の方たちはノーマークかも知れませんが、なかなか注目すべきYA作品だと思います。

東京からやってきた冽史は、広樹の従兄弟で、祖母の家に暮らしながら、広樹と同じ中学校に通っています。大阪から電車で30分程度のベットタウンであるこの町。都会にも近いけれど、田んぼもあって、言葉はバリバリの関西弁。そんな地元の子である広樹の従兄弟の冽史は、標準語で話し、わざわざ電車で梅田まで行って買ってきた文庫本を読んでいるような子なのです。まあ、中学一年にもなってTVのロボットアニメに興じているような広樹にしてみれば、さりげなく、サリンジャーの『ナインストーリーズ』や、ゴールディングの『蠅の王』なんて読んでいる冽史は、ちょっとした驚異なのです。大学教授のお父さんから離れて、一人、祖母の家で暮らすことになった冽史。両親は離婚係争中で、お母さんは東京にいる複雑なバックグラウンド、だからなのか、ここらへんの中学生じゃ絶対しないような「苦笑」を浮かべていたりすることもある。要は、ちょっとオトナの子なのです。そんな冽史を見つめる、直情型の性格で、まだまだ子どもの広樹。とはいえ、冽史から教えてもらったアシモフの作品にひかれたり、「はっぴいえんど」の歌に感じ入ったり、少しずつ、彼の影響を受けて、大人びていきます。『機動戦士ガンダム』のアムロの心情について友人たちと討議してみたり、ランバ・ラルに戦争の痛みを見たりして、ちょっと違った角度で世の中を捉えはじめようとする、そんな時期。だからこそ、触れてしまった冽史の心の痛みを、どうしたら良いのものかともてあまして考えてしまう。これまで一緒にやんちゃに遊んでいた仲間たちが、それぞれ自分の心の世界を見つけ出していく時期。そんな時間に揺れる少年の心の労しさが「理想的」に描かれている作品です。物語としては、それほどの進展はないけれど、ここには、すぐに過ぎ去っては消えていく、少年たちの時間が焼き付けられているようです。固有名詞を散りばめながらも、それだけに頼らず、大人たちの心の機微も、ほのかに見え隠れする、みっちりと描きこまれている作品でした。

男の子たちが仲良くはしゃいでいたり、じゃれていたり、ふざけながらも、時には、深くお互いを思いやったりする、そんな空間が描かれている作品は多いですね。恣意的にそこばかりが注目されたりして、『バッテリー』や『ビート・キッズ』も「そうした傾向」の作品と思われているかも知れません。一方、あえて「そうした方向性」を意図しているんじゃないかなと思う作品ともよく出会います。男子的には、女性作家さんの行き過ぎた男子幻想を思ってしまう部分もあります。実際の中学生男子はかなり子どもだし、嫉妬深いし、劣等感と優越感のハザマで揺れているし、なによりエロ妄想抜きには語れないような気もします(大槻ケンヂさんの『グミ・チョクレート・パイン』が男子の実像です、と言ってしまうと、身もフタもありませんが)。稲垣足穂に『彼等』という作品があって、男の子が、友人の手が荒れているのを見て、ああきっと彼は家で辛い水仕事をさせられているに違いあるまい、と、その境遇に想いを馳せる場面があります。こうした心の動きを同性愛の萌芽と見るか、麗しい友情と見るかは、読む側の感受性のいたすところでしょうが、まあ、あえかな心の瞬間は確かにあるかな。捉えようなのですが、なかなか現代は、男子の友情が描かれにくい時代だなと思います。少年たちの輝かしい夏の物語は、それを遠目で熱視している少女たちのものだけにしておいて良いものか、と思ったりもしています。是非、男子に男子物語を取り戻したいところです。ところで『クレイジーカンガルーの夏』というタイトルは、本書のストーリーとは、ほとんど関係がありません。読む前に、なんか翻訳YAみたいだなと思い惹かれたのですが、元ネタについてあとがきで説明されています。知らないでいた方が幻想は抱けることもまたあります。少年の実情も女子には内緒にしておくのが賢明かも知れません。