友だちは発明王
出 版 社: PHP研究所 著 者: フィリップ・ロイ 翻 訳 者: 櫛田理絵 発 行 年: 2017年01月 |
< ぼくとベルさん 紹介と感想>
知能にはなんら異常がなく、時には通常以上の能力があるのに、読み書きが困難である識字障害(ディスレクシア)。現代では大分、認知が進んでいるものの、この物語の舞台である1900年代初頭には、まだディスレクシアというものが存在することが知られていない時代でした。カナダのノバスコシア州の農村で暮らす少年エディは、読み書きができないため頭が足りない子だと思われ、父親からも諦められていました。みんなが書ける簡単な単語さえ書くことができない。綴りと音が頭の中で結びつかないのです。このために単純なお使いでさえ果たすことができません。母親はエディの状態を先生に説明して配慮してもらい、そのために教室では同級生から冷やかすような顔や、あきれたような顔を向けられるエディ。そんな周囲の反応から、実際は、非常に賢い少年であるにも関わらず、エディは自分を卑下しがちになっていきます。しかし、落ち込んでいたエディは、ある人物との出会いによって、自分の人生を変えていくことになります。それがあの、実在の著名な発明家、グラハム・ベルであった、という驚くべき物語です。2018年に青少年読書コンクールの課題図書や読書感想画の指定図書となり、広く子どもたちに読まれた作品です。
湖に浮かべた船で地球がまるいことを証明できないか。エディが口にした言葉に、近所に住まいを構えていた地元の名士であるグラハム・ベルは、この偶然知り合った少年に、知性の輝きを見ます。ベルは発明に必要な空想する力についてエディに教えます。そして、親しい知人であるヘレン・ケラーに会ってみないかとエディを誘うのです。ベルはエディの資質と才能を見ぬき、励ましてくれました。そして、重い障がいを負っているヘレン・ケラーの賢明さや知性に触れることで、エディはあきらめない気持ちを学んでいきます。本は読めないけれど、発想力のあるエディには大人たちが困っている問題の解決策を考えることができます。やがて誰もが動かせなかった木の切り株を除去するため、高等数学の本の「挿絵」から学んだ滑車の原理を使って「大きな力」を生み出し、大人たちも驚く働きをすることになったり、大ケガをした父親の命も、その機転で救い出すことにもなるのです。そんな逆転劇もあり、エディは自分なりの生き方を見出だしていきます。ディスレクシアは克服できるわけではないけれど、稀代の発明家であるベルが、エディの才能を高く評価して、諦めないことを諭し続けてくれたことで、エディが小さな自信を積み上げながら、自分を励まして生きていく姿に感銘を受ける物語です。ディスレクシアと共生する人たちの困難を知る契機にもなる作品だと思います。
例えばtoughという言葉はタフと発音するけれど、f の文字は入っていません。スペルと音を両方覚える覚えることで、こうした差異を理解するものですが、エディのような障がいを負っている人は、ここから先に進めません。なので、読めないし、書けない。ネイティブスピーカーは、こうした綴りと音の差異を、当たり前のように理解しているものだろうという自分の偏見にも気づかされた物語です。そういえば子どもたちがスペリングのコンテストに出場する物語はままあって、英語圏の子どもたちもまた、努力しながら綴りを身につけているものですね。となると、読めないし、書けないことは努力不足か、やもすれば知的に劣っているのではないかと思われてしまう。現代の物語でも、苦労を強いられているディスレクシアを負った子どもたちの姿が描かれていますが、この時代にあっては、より生きづらさがあったかとも思います。この物語には、実際にベルと懇意であったヘレン・ケラーが登場します。サリバン先生をヘレンに引き合わせたのもベルであったそうです。ベルの発明家としての偉業も色々と知ることになります。そしてその、あきらめない、というスピリットも。歴史上の巨人と子どもが出会う物語はままありますが、おおよそ自信を失っている子どもの才能を見出し、励ましてくれる存在となってくれます。それは何よりも心強いことだし、周囲からも軽んじられ、自分自身をも損ないつつある主人公への光明であり、そのカタルシスは絶大ですね。