ぼくのはじまったばかりの人生のたぶんわすれない日々

The Death and Life of Benny Brooks.

出 版 社: 鈴木出版

著     者: イーサン・ロング

翻 訳 者: 代田亜香子

発 行 年: 2024年10月

ぼくのはじまったばかりの人生のたぶんわすれない日々  紹介と感想>

子どもだから無邪気かというと、そうともかぎらないものです。無邪気の有効期限には個人差があって、否応なく思慮深くなってしまうこともあります。十歳という年齢を考えた時、普通は、邪気のない子どもの姿を想像するものですが、普通じゃないケースの方に気持ちを引き寄せられてしまうのは、自分自身がその頃、目も当てられない迷走状態だったからです。思慮深いというより、考えこんでいました。まあ、十歳で親が自死するなんて体験は、その衝撃も大きかったのですが、それはそれとして、日常をあたりまえに生きていかなくてならないことがキビシイのです。普通のふりをしていても、バランスを失いがちで、色々なところで頭をぶつけていました。要は心のコントロール不全だったのです。そのダメージが蓄積して、未消化な気持ちを抱えたままの大人になりました。パンチドランカーのような感受性を抱えることは避けたかったなと思うものの、今となっては、それが自分の特質になっているので複雑です。有事のあった子どもには適正なメンタルケアを施すべきだと強く願うのは、メンタルケア不毛時代に育った自分の切望です。本書もまた、かなりハードな体験をする十歳の少年が主人公です。著者のあとがきによると実体験に基づいているということですが、その子ども時代は1970年代だというので(欧米の児童文学を読むかぎりは、カウンセリングやグループセラピーは日本より進んでいたようですが、まだそこまでの時代ではなかったか)、もしかすると著者もまた、未消化なものを抱えたまま大人になった人なのではないかと想像しています。困りながらも笑うしかないような、途方に暮れた子どもの心境がここには描き出されています。本文中にあったように、まさに「のぞき穴からのぞきながら生きていく」感覚です。両親の離婚や、幼くして親を亡くす前後の、気持ちのコントロールができない、いたわしい子どもの物語です。児童文学の主人公を通して自分の残像を見てしまう大人読者としては、いちいち胸に沁みます。こうした子どもの心境が万国共通であるということに感じ入るとともに、文学の慰めもまた普遍であると信じたいところです。

父さんと離婚して母さんが出ていってしまったことで、十歳のベニーの生活は変わってしまいました。兄のジェイクと妹のリビー、そして父さんとの四人の生活は、父さんの料理の粗雑さも含めて、どこか寂しく、母さんを恋しく思うベニーの気持ちは沈みがちです。離婚する前、両親が喧嘩ばかりしていた頃から、ベニーはいらだつことが多く、今もまた、ちょっとしたことで気持ちが抑えられなくなることがありますが、なんとか毎日をやり過ごしていました。そんな折、父さんの肺にガンが見つかります。咳きこみながらもタバコをやめない父さん。それでも父さんが不安を抱えていることをベニーは感じとっています。父さんの咳はひどくなっていくし、色々とうまくいかないことは多く、ベニーの焦燥も募ります。そして、父さんのガンは急速に悪化して、あと数ヶ月しか命がもたないと宣告を受けるのです。叫び出したいような気持ちを抱えながらも、普通に毎日は続きます。ベニーは学校の友だちとも揉めてしまったり、上手くやることができません。事情を知って、励ましてくれる大人もいます。それをありがたく思いながらも、時計は止まることもなく、父さんの病状が持ち直すわけでもなく、事態はより悪くなっていきます。入院した父さんは、やがて最期の時を迎えます。ベニーの心は、どうこの瞬間を受け入れたのか。はじまったばかりのベニーの人生で、その心は一度、空っぽになります。それでも再び前を向いて進んでいく時はきます。必ずくるのです。

物語は、ケーススタディのように読むべきではなく、こうした状況にいる子どものメンタルケアの最適解を見つけるためのものでもありません。気持ちをコントロールできず、問題行動を起こしてしまう子どもは、問題児と呼ばれますが、その心中に兆しているものに寄り添うことができるのは、やはり物語だからこそかも知れません。沢山のユーモラスなイラストに彩られた軽妙な物語です。ベニーも明るく暮らしています。それでも心の裡にある悲しみや怒りが、ずっと疼いています。本当は、叫び出したいうような気持ちを抱えているベニーですが、日常生活の中で、叫ぶことはできません。とはいえ、心のバランスは崩れていて、ちょっとしたことで諍いを起こしてしまったりするのです。この状態をベニーの主観から描きだす物語は、読者の客観によって補完されます。ベニーは自分の本当の気持ちを抑え込んでいます。哀しいとか、辛いとか、苦しいとか、そんな言葉は口にしないし、気持ちの表面には現れません。ここに読者はいたわしさを覚えてしまうのです。両親の離婚前後で問題行動が目立ったベニーは、カウンセリングを受けさせられています。これに本人は抵抗があるのですが、カウンセラーはベニーが気持ちを解き放つサポートをしてくれます。やがて父親の病状が悪化し、どうして良いかわからない不安を抱えるベニーを、支えてくれる大人がいてくれることは、物語の救いです(これは著者の子ども時代の実体験だったのか、あるいは願望だったのか気になるところです)。父親が入院したことで、家にいて苦しんでいる姿を見ているより、気持ちが楽になるというのは、正直ですが、後ろめたさもあるものです。一途に親を思いやることなんてできるわけではないということを受け入れて、自分を肯定できるのには、それなりの人生経験が必要です。実際、人生がはじまったばかりのビギナーである子どもは戸惑いの連続であり、キャパシティオーバーな事態には対処できず、あちこち頭をぶつけてばかりいるものです。物語が繫ぎとめるものは、難題に対処した成功事例でも失敗事例でもなく、生きていくことの愛おしさです。どんなことも生きる力に変えていける、とは美辞麗句すぎるのですが、人生の試練に耐えた自分を多少は自負していけるものなのだと、主人公に語りかけたいところです。わすれたい日々ですが、わすれられないものです。これを、わすれない、と言える強い意思は、その先の人生を支えてくれるものと思います