ぼくらナイトバス・ヒーロー

THE NIGHT BUS HERO.

出 版 社: 静山社

著     者: オンジャリ・Q.ラウフ

翻 訳 者: 久保陽子

発 行 年: 2024年06月

ぼくらナイトバス・ヒーロー 紹介と感想>

日本でかつて「浮浪者」と呼ばれていた人たちにホームレスという呼称が使われるようになったのは、体感、三十年ぐらい前か、もうすこし前だったかと思います。それ以前の物語においては「右や左のダンナ様…」は極端にしても、ある種のストックキャラクターとして使われることが多く、この社会が生んでしまった歪みとして扱われることは少なかった印象です。一方で、ある時期以降の国内児童文学でのホームレスの扱いは、海外作品ともやや違って「都会の聖者」のように描かれるものが多く見られます。競争社会から、あえて下りてしまった「巷間の哲学者」が、子どもたちに示唆を与える作品には傑作も多いのですが、やはり、ホームレスと子どもが親しく付き合う、という状況はコンプライアンス的にも難しいのか、次第に見かけなくなってきた現時点(2024年)です。ロマンにされることでリスクが野放しになることもまた見過ごすことはできないものかもしれません。一方で、ロマン抜きにリアルだけで描くには、難しい題材なのです。海外作品では社会的弱者としてホームレスが描かれ、社会問題を意識させるものが多いかと思います。貧困問題は程度の差もあって、どの段階で持ち堪えているかではあるのですが、ホームレスという状態に進んだ人たちは、やはり特別な存在であって、偏見を持たないようにするには、それなりの意識が必要です。子どもたちは概して短慮であり、偏見に陥りがちです。大人もまた、どんな人をも人として尊重するという基本姿勢が身についていない人はいます。あるいは表向きだけの素振りの人も。綺麗事ではなく、人間同士として共存するにはどうしたら良いかと考えます。同じ等身大の人間として、無視をせず、目を逸らさない。これは大人にとっても大いなる課題で、児童文学に教えられることは多いものです。本書もまた子どもとホームレスの交流を描いた作品です。これがなかなか手に負えない子どもで、多くの人を傷つける問題児です。人の痛み知ることが、成長の第一歩なのですが、そうやすやすとはいかないものです。大人だって本質的には難しいことです。そこに、ぐっと目を向けさせる力業が物語の醍醐味です。次第に変化がもたらされていく主人公の心の軌跡に注目です。

十歳のヘクターはかなりの悪ガキで、そのイタズラは悪質で先生たちにも叱られてばかりですが、気にする様子は一向になく、仲間のウィルやケイティと一緒に、どんな悪さを仕掛けようかと虎視眈々としている、そんな少年でした。その日も公園のベンチに座っていた年配のホームレスの男性の帽子を奪ってからかおうとしたところが、小石を投げつけられて逆襲され、撤退せざるを得なくなります。ヘクターは悔しくて、今度は男性が荷物を積んだカートを隠して困らせようとしたところが、重いカートを暴走させて、公園の池に沈めてしまいます。そこまでする気がなかったヘクターは、その悪事を同じクラスの優等生で真面目な少女、メイ・リーにも見咎められ、動揺します。その男性、トーマスのことが気になったヘクターは、町で見かけた時も、その挙動に注目していましたが、どうも不審な動きがあることが気になります。折りしも、ロンドンの町では色々なモニュメントが盗まれる連続窃盗事件が起きていました。その犯行現場には、ホームレスが使う暗号サインが残されていた、となると、ヘクターはトーマスとこの事件を結びつけて考えはじめます。ホームレス支援のボランティアに参加しているメイ・リーのツテでトーマスに近づいたヘクターは真相を確かめようとしますが、傷ついた大人であるヘクターの人物像に触れて、よくわからなくなっていきます。社会活動にも目を向けている立派な両親がいるヘクター。なんら不足のない環境に暮らしているのに、満たされないものがあります。自分の心を見つめ始めたヘクターには、これまでの行為への罪悪感も芽生えます。窃盗事件の真相を自分もまた見極めることにしたヘクターは、トーマスと一緒に夜のバスに乗り込み真犯人を追及していきます。やがてホームレスに罪を着せようとする悪意に対して、ヘクターにも正義感が芽生え始めるのです。

やはりホームレス全般が、聖者ではないにしても、傷ついた心を抱えた善良な人たちである、という前提は感じられます。色眼鏡で見るべきではないことはもちろんですが、フラットに考えないと、距離感を見誤る危惧もあります。歩み寄って、さらに支援される側の心情についても考えるということは難題です。同じ著者の『フードバンクどろぼうをやっつけろ!』も、やはり子どもたちが弱者を苦しめる悪党を懲らしめるお話なのですが、弱者の心層を想像させられる余白が多くて、これもまた痛快な物語というよりは、苦味を含んだものになっています。ボランティアが社会福祉の不足を補っている程度なら良いのですが、行政ではなく、民間人の善意に委ねられていることの是非も考えさせられます。その是の部分として、ごく普通の民間人が寄り添うことで、無償の善意を体現することができるのだとも考えられます。まあ、社会システムの不備を民間人が善意で補っている状況を、これからの世代の子どもたちにも一緒に考えて欲しいものです(大人のせいなのですが)。ともかく、意識しないと目が向かないものです。少なくとも目を逸らさないようにするべきですね。さて、本書のような手に負えない子どもについても、やや諦めてしまいがちです。面倒なので、見なかったことにしてしまいたい。親でも教育関係者でもなければ、自分に危害さえ加わらないかぎりは放っておきたいところです。とはいえ、その心情にアプローチしながら、物語をともに伴走する読書は、人が正しく目覚める心の軌跡を感じとらせてくれます。人が善意に立ち返る可能性はあると信じたいものです。