むこう岸

出 版 社: 講談社

著     者: 安田夏菜

発 行 年: 2018年12月


むこう岸  紹介と感想 >
モノトーンの重い画調の表紙を前にして、きっとシビアな現実を見せつけられる読書になるだろうなと、ちょっと引いていました。暗澹たる物語を想起させる黒い扉。現代の子どもたちの貧困を描いた挑戦的な作品であるという前評判が高かったために先入観があったのです。しかし、読後にはこのモノトーンの中に潜んでいる色彩に気づかされました。目が醒めるような鮮やかな色が閃き、この黒い世界を塗り変えていく。そんな未来への予感を与えられる力強い作品でした。モノトーンの世界に色をつけていくのは、自分の意志です。どんな窮状にあっても、救済はある。自分自身を救い出そうという意思があれば、活路は見いだせる。希望があることに気づけない子どもたちに、あらかじめ諦めてしまった子どもたちに、この世界がまだ開かれていることを教えてくれる物語です。社会の不合理な現実に、気弱な中学生が立ち向かい、自分に何ができるのかと思い悩みます。甘い理想や上面の言葉ではなく、具体的にアクションを起こして、問題を解決しなければならない。ここで必要なのは慰めよりも、ノウハウです。ここ日本でも『リキシャ・ガール』のような、「制度」が子どもに希望をもたらす物語が描きうるのです。魔法ではなく、いたって現実的な「手続き」によって、人が救われる。その救いとは、未来へ可能性が繋がれることです。先入観を覆していく鮮やかな気づきに溢れた「具体的」な救済の物語です。なによりもベースに温かいものが流れている作品ですので、怖れずに手にとってもらいたいと思います。

成績不振から私立の名門中学をドロップアウトした和真は、失意のうちに公立中学に通うことになりました。医者である父親からは高校受験でのリベンジを期待されていますが、自信を失い、落胆したまま、家にも学校にも居場所がない心の彷徨を続けています。そんな折、あるきっかけから、同じクラスの女子である樹希に名門校から転校してきたことを知られてしまい、その秘密をバラさない代わりに取引を持ちかけられます。父親がおらず、母親も心の病気で働けず、幼い妹の面倒を見ている樹希。生活保護を受けていることを同級生にからかわれ、自分の体操着に「生活保護、ありがとう」と書き殴った自暴自棄は、周囲から彼女を孤立させていました。それぞれ違う環境で育った二人は、互いの苦衷に共感することもできない。しかし、樹希が進路を断たれ、将来に失望していることを和真は知り、次第に樹希のためにできることを模索し始めます。樹希との取引で和真が勉強を教えることになった、口をきけない小学生、アベルとの交流も和真にこれまでに感じたことのない気持ちを与えてくれました。自分とは関わりがないと思っていた「貧しい世界」。知ることもなかった生活保護の制度。希望を失っている樹希にかける言葉を持たない和真にできるのは「調べる」ことでした。社会的なステータスばかりを求める父親や祖母の嫌らしさに辟易しながらも、自分もまた同じ高所から人間を見ていたことに気づいた和真。違う場所に立っていた二人のすれ違う心が、少しずつ近づいていくプロセスや、自分のことで精一杯だった和真が、樹希ために理不尽な制度に怒りを覚える姿にもグッときます。真面目でドジで不甲斐ない和真がどこかコミカルで、その存在自体が読者にとっての救いであったなんて、本人はあずかり知らぬところでしょう。彼が新しい旅立ちを迎える物語の終わりには、樹希もまた希望を見い出しています。二人のそれぞれの前途を祝福したくなるような、愛おしさに溢れた物語です。登場人物たちがあたたかいまなざしで守られていることを感じさせる作品ですね。

この物語は「情」に厚いと思います。良い意味で「浪花節」なところもあります。それもまた児童文学が持つ、願いや祈り、スピリットのひとつの発露であるのかと思います。一時期の、リアルな現代を描く国内児童文学は、大人不在で、差し伸べられる温かい手もない環境の中、子どもたちが自分たちだけで、子どもなりの結論を出し、この世界と渡りあっていく物語が多く見受けられました。そうしたサバイバルが与えた勇気もあったと思います。この閉塞した世界への不信感が基調になったところで、再び国内児童文学は、この世界を信じることを伝えようとしている、そんなトレンドを感じています。この社会を生き抜くための気づきや知恵を与えたいという意思。大人やこの社会を信じて欲しい。それには賢明な判断力と知識、見誤らない現実的な知恵も肝要なのだと伝えようとしているのではないかと思うのです。この物語では、人間のプライドや矜持の持つ多面性も描かれています。和真の父親のように自分の出身校やステータスに誇りを持つことも悪いことではありませんが、人を見下すことで満足させられる自尊心は、その暗黒面です。樹希のように、施されることを恥ずかしいと思うことも人としての矜持ですが、自分自身をも傷つけてしまいがちです。プライドは厄介なものですが、ここ一番の時に、人が勇気を持って行動する原動力にもなるものです。大抵のことは「対岸の火事」です。むこう岸で起きていることにどこまで心を寄せられるものだろうかと思います。橋のない川をこえて、近づいて行くことは、無謀な行為かも知れません。とはいえ、どこに立っているのかを決めるのは自分自身なのだと思えます。どんな時も胸を張って、誇り高くあること。人や自分を傷つけるためにではなく、尊重するために。理想を上滑りさせないために、具体的に何をすべきか。その答えを、自分で見つけ出せる本だと思います。