ノック人とツルの森

Kraniche und Klopfer.

出 版 社: 河出書房新社

著     者: アクセル・ブラウンズ

翻 訳 者: 浅井晶子

発 行 年: 2008年08月


ノック人とツルの森  紹介と感想 >
ノック人がどうして危険なのかというと、ドアを叩きに来るからです。世の中には開けてはいけないドアがあるのに、ノック人は無遠慮にやってきます。ノック人的というのは、干渉しがち、ということです。彼らはお構いなしにノックをしては、すべてを暴いてしまう。アディーナは母親のカーラから、決してノック人に心をゆるしてはいけないと厳命されています。警戒しなくてはならない。友だちになってはいけない。決して、彼らに自分たちの家の中を見られてはいけないのです。ノック人には、どうしてカーラが沢山のゴミやガラクタとしか思えないものを家の中に溜め込んでいるのかわからないのです。でも、それは娘であるアディーナにも理解できないこと。ゴミは次第に増えつづけ、カーラは決して片づけてはくれません。ゴミ屋敷に住み、ほとんどお風呂にも入らず、不潔なまま暮らしている小学校二年生の女の子アディーナ。しかし、彼女も外の世界でノック人たちと触れ合うたびに、少しずつ自分の家のおかしさに気づき始めていました・・・。不気味な緊張感は続き、物語はどこに行き着くのかわからない。このおかしくも恐ろしい世界。一般向け小説ですが、記憶の中にある子ども時代の、靄がかかったような、魚眼レンズで見たような、目が回るような世界がここにあります。児童文学であれば、ハートネットに通じるような、異世界を浮遊する子ども時代が現出されている作品です。

ゴミといえば分別。アディーナが母と住むゴミ屋敷のゴミやガラクタたちもまた、いくつかの基準によって分別されています。<なんてきれいなの><よく見てみなくちゃ><ああ、これは大切><とても捨てられないわ><あとで捨てるから><全部捨てるから>・・・とはいえ、普通の人たちから見れば、これはすべてゴミやガラクタです。捨てるから、といいながら、捨てられないゴミたちは増え続けます。カーラは普通にきちんと働きながら、外の世界から沢山のゴミを拾ってきては、家の中に増やし続けます。ゴミと泥にまみれた家の中でアディーナは暮らしてため、学校では、アディーナがノック人の子どもたちを警戒する以上に、彼女の放つ「におい」が同級生たちを遠ざけます。そして、クラスには暴君である少年、タイガーに、アディーナはいじめられ、毎日のように殴られ続けているのです。ある時、アディーナは、ツルの保護観察が行われている郊外の野性動物保護区域に迷い込み、エアラという女性と出会います。ノック人であるエアラと親しくなったアディーナは、しばしばエアラを訪ねるようになり、エアラもまた、この不思議な汚れた子どもと親しく接していきます。少しずつ変わっていくアディーナの世界。自分とは違う匂いを持つ人々に戸惑うアディーナ。果たして、彼女は、ごく普通の世界を取り戻すことはできるのでしょうか。

世の中には、壊れた大人に育てられている子どもが少なからずいるはずです。暴力や極端なネグレクトではなく、こうした、静かに、哀しくも、病んだ心の世界に住んでいる親と一緒にいることは、外界からは発見されにくい虐待なのかも知れません。ゴミ屋敷を作ってしまう人間の精神的な問題は、自分のような「おかたづけができない」タイプの人間からすると親近感があって、少し、恐ろしいのですが、どうも、もっとレベルの高い偏執的な拘泥の結果のようです。城壁のように家の中にゴミやガラクタを積み上げるカーラには、自分なりの正しさがあるものの、まだ一抹のまともさがあって、それでも片づけなくてはという、気持ちに揺れています。そんなカーラを見ながら、アディーナは、彼女の世界を傷つけたくないという思いと、まともな世界からの誘惑に揺れています。そして、内なる静かな狂気。アディーナの中にもまた、破壊や暴力的な衝動がかすかに渦巻いています。アディーナの行動もところどころ異常な領域に入っていて、なにかしでかしかねない危うさを孕んでいます。とても不思議で倒錯した世界が現出された物語です。ツルのように超然として、何も言わずに、いつの間にか心の裡を知ってくれる。ノック人のように、根ほり葉ほり質問をして干渉するのではない。ツル的というのが、アディーナにとっての最上級の言葉です。強制でも矯正でもなく、アディーナの心の軌道補正を、そんな豊かな心を持った大人がしてあげることができるのなら・・・。いえ、そんな単純なことじゃないはずですね。壊れた心の制御の利かない哀しみに対して、狂っている人、とバッサリ割切って、消去してしまえない自分もいます。これは、複雑です。