もうひとつの曲がり角

出 版 社: 講談社

著     者: 岩瀬成子

発 行 年: 2019年09月

もうひとつの曲がり角  紹介と感想>

習い事やクラブ活動を辞める、ということは、子どもにとって一大事です。嫌なことから距離をおきたいというのは正直な気持ちだと思いますが、続けられない挫折感もあるだろうし、親や先生を説得しなければならない局面も難題でしょう。実際、自分の気持ちを上手く言葉にして説明することは難しいのではないかと思います。なにがどう嫌なのか。これを巧く伝えられないのが子どもです。自分も小学生の時に、習い事の剣道を二年で辞めたのですが、元々、親の意向で始めたもので、正直、イヤイヤ通っていた記憶があります。辞めるに際して、どんな修羅場があったかは記憶していないのですが、やめられて良かったという思いの反面、親の期待を裏切ったなあとか、もっと続けていたら自分も変わっていたのではないか、などの想いを、その後の人生でことあるごとに抱いたものです。とはいえ、嫌なことを続ける心労を避けることや、自分の意志で自分の進むべき道を決めたいという気持ちも大切で、なにを正解とするかは答えは出ないものですね。まずは、習い事を続けていることに違和感があるなら、そこをはっきりとさせていくべきでしょう(まあ、なんとなく会社を辞める大人もいると思えば、子どもにそこまで求めるべきかは考えるところですが)。この物語は小学五年生の女の子が、親から通わされている英会話スクールを辞めるまでの心の軌跡を描いたものです。そこにいたるきっかけのひとつがタイムスリップである、という奇想の展開もあります。それもまた子ども時代の、あの奇妙な感覚を喩えたものではないかと思うのです。鬱蒼としたモヤの中にいる子ども時代。あらぬ想像に翻弄され、疑問を抱き続ける心の迷走。習い事を辞めるという子ども時代のリアルなトピックが、幻惑と幻想の物語として語られる、蠱惑的な岩瀬成子ワールドの一局面を垣間見られる快作です。

毎週土曜日の午後、小学五年生の女の子、朋(とも)は英会話スクールに通っています。その日もスクールに向かった朋は、臨時休講を知り、家に引き返そうとしますが、いつもと違う道を通ってみたくなり、まがったことのない角をまがって知らない路地に迷いこみます。そこで見つけた「喫茶ダンサー」の看板。とはいえ、お店がやっているわけではなく、庭のテラスでおばあさんが一人で朗読をしているのです。その声に聞き入ってしまった朋は、オワリと名乗るおばあさんから毎週、この時間に朗読をしていることを教えられます。おばあさんのことが気になった朋は、翌週、塾に行かずに、おばあさんを訪ねます。その不思議な話ばかりの朗読を聞き、塾をサボった罪悪感を抱えながらも、また土曜日になると、おばあさんのところに行きたくなる朋。しかし、その日は、曲がり角を曲がると、見知らぬ場所に出てしまうのです。同じ道を通っているはずなのに違っている、それはどこか古めかしい風景でした。そこにいた女の子に「喫茶ダンサー」のことを聞いても知らないと言います。不思議な気持ちを抱いた朋は今度は学校の帰りに、この道を訪れます。その女の子、みっちゃんは犬を連れていて、体操が得意で、朋と同じ小学校の四年生だというのですが、学校で四年生のクラスを訪ねても、そんな子はいないのです。朋は、向こうの世界が、自分のいる世界と違った場所であることに少しずつ気づいていきます。過去と現在。子ども時代のことを思い出しているオワリさんの時空間とシンクロする朋の物語は、不思議なまま進み続けます。

この春、中古だけれど広い一軒家に引っ越して住み替えることになった朋の家族の生活は、それぞれ変化しました。お父さんの通勤時間は長くなり、お母さんは勤め先を変え、お兄さんは公立中学に新一年生として入学したので転校ではなかったものの、朋は五年生から今までとは違う小学校に通うことになったのです。お母さんは、良かれと思ったことを、なんでも自分で決めてしまいがちで、それが家族との不協和音を生じはじめています。英会話スクールに通わせたかったのも、朋の将来を思ってのことです。社交的でもなく、内省しがちな朋は、新しい環境で、友だちを作ることができず、学校でも英会話スクールでも孤独をかこっています。ネイティブの先生に発音を矯正されながら、楽しさを見出せない朋は、お母さんに言われたまま、英会話スクールを続けることに逡巡しています。できればサボりたい。オワリさんや過去の時代との邂逅が示唆するものは、教訓的なメッセージはなく、なんとなく変で不思議な出来事との遭遇です。それが朋の曖昧とした心境を映したものかどうかさえ混沌としています。子ども時代のマジックアワーに、いつか見た幻夢譚はどこかシュールなもので、それでいて子ども時代の気まずさのリアリティにも満ちています(岩瀬成子さんの初期作品『あたしをさがして』や『もうちょっとだけ子どもでいよう』なども彷彿としてくるのです)。独善的なお母さんも、家族に自分の気持ちを理解されない哀しみがあり、子どもたちに良かれと思って勧めていることも、彼女自身の子ども時代の隙間を埋めるものであったとすると感慨深いのです。子どもも大人も複雑な思いの丈を言葉にして、人にわかりやすくキチンと説明することなど不可能なものです。岩瀬成子作品に繋ぎ止められた感覚の嵐には、毎度のことながら耽溺してしまうのですが、この読者としての感想も説明は難しく、どうか読んで体感してもらいたいと願うものです。