わたしたちの家は、ちょっとへんです

出 版 社: 偕成社

著     者: 岡田依世子

発 行 年: 2016年07月

わたしたちの家は、ちょっとへんです  紹介と感想>

両親が揃っていない家庭を表す欠損家庭という言葉があります。教育現場でも使われていましたが、この言葉に大いに傷つけられてきた子どもも多いのではないかと思います。何を家庭として完全と考えるか。両親が揃っていたとしても大切なものが足りないことだってあるはずですが、欠損家庭はあらかじめ、まともだとは思われていない気がするのです。問題はそうした言葉を使う側の先入観や「普通」に対する奢りです。いや、そこまで意識されて使われていた言葉でもなかったのか。時代は変わり家族の形は一つではなくなってきています。海外の児童文学作品では両親の性別が一緒ということだってあります。では2010年代の国内児童文学における家族は、どこまでが「普通」の許容範囲なのか。この物語は、そうした家族のあり方が主題となっています。両親が離婚していたり、親と離れて暮らしている子どもたち。その状況を子どもたちは、かつての児童文学のようには深刻に悩んではいないし、あえて「深刻に受け止めないことを表現した」体の物語でもありません。もはや両親が揃っていない家庭も、ごく当たり前になっていて、今更、傷つくまでもないのです。ただ、やはり、少し「大変」ではあるのです。いやミニマムに「ちょっと変」だとは思ってしまっている匙加減なのです。家族の形なんて一つじゃないし、幸せの形だってそれぞれだよガッハハハ的な乱暴なまとめもありです。ただ現実的には、もう少し繊細な心模様がある。2016年の物語に繋ぎとめられた揺れる気持ちをここに読むことができます。

それぞれ家庭の事情を抱えた三人の小学六年生の女の子。杏奈は両親が離婚して、お父さんとおばあちゃんと暮らしています。小劇団の女優のお母さんと不動産会社を経営するおばあちゃんとはソリが合わず、何でも口だしするおばあちゃんには、お母さんと関わることも反対されています。志乃はシングルマザーのお母さんと父親の違う妹と暮らしています。やたらと色々な男を連れてくるお母さんに呆れ気味の志乃。優子は両親が揃っていますが、仕事の都合でそれぞれ別の場所に分かれており、優子はおばあちゃんと一緒の暮らしています。どうやら両親ともに独身生活でハメを外しているような気配もあり、優子としては気になっています。ふとしたきっかけから親しくなった三人は、それぞれの家庭の問題を隠すことなく相談します。大いに困っているわけではないけれど、勝手な両親に不満もあるし、グチもこぼしたくなるのです。とはいえ、三人がハタと気づいたのは、親に直接、文句を言えないということです。どうせ聞いてもらえないから言わないのか。どこか親への配慮も見えるのが、気配りすぎる現代っ子だからか。まずは自分で動く。自分の居場所を自分で作るのだ。そうは言ってもこれは難題です。三人が自分の素直な気持ちを親の前で口にできるようになるには、いくつかのトラブルを越えて、吹っ切れた先の話なのですが、この逡巡する気持ちこそが見どころなのです。

三人の名前が表しているように、やや現代の時代感覚よりも古さを感じるところがあります。逆に言えば、子どもが子どもらしく悩んでいるところがあって、そこは安心できるのです。共感不能の異次元の感覚が描かれるところまでは進化しておらず、コンサバティブな児童文学の良識が遵守されているあたりにホッとしてしまうのです。親の離婚に際して、杏奈はやはり傷ついています。お決まりの「どっちの親をとるか」選択は、どっちをとっても子どもが傷つくのに、あえて子どもに選ばせるという配慮ゼロ状態は、過去の物語の中でも描かれてきた寸景です。この点を子どもが、抵抗を感じながらも「なんとかスルーしている」姿は現代のモードなのかも知れません。時代の変化を如実に見るのは、子どもよりも、大人がより子どもっぽくなってしまったことでしょう。2010年代の児童文学では、両親どころか、おばあさんたち世代だって、どこか子どもなのです。そんな大人にどう子どもたちは対処すべきか。子どもの方が大人に気を使う逆転現象がどこに向かうのか注視していきたいところです。