出 版 社: 鈴木出版 著 者: シャロン・M.ドレイパー 翻 訳 者: 横山和江 発 行 年: 2014年09月 |
< わたしの心の中 紹介と感想>
メロディは自分の中にとじこめられていました。脳性マヒで自由に動かすことができない手足。誰かに補助してもらわなければ、食事も、トイレも、お風呂に入ることもできず、寝返りをうつことさえ一苦労。メロディにとって、なにより苦痛だったのは、話すことができず、自分の心に浮かんでくる言葉を誰にも伝えらないことです。お医者さんは簡単なテストだけで、メロディは脳にも損傷を負っていると判断して、彼女の豊かな感性を見過してしまいました。それでも両親や、子どもの時から面倒を見てくれているとなりの家のヴァイオレットは、メロディの心のなかに沢山の言葉が息づいていることを信じていました。実際、メロディは普通の人よりも多くのものごとを記憶することができる並外れた記憶力があり、その感受性はこの世界を豊かに感じ取っていたのです。自分の心に浮かんだ想いを言葉として表現したいとメロディは願っていました。最初は、あらかじめ言葉の書かれたいくつかのカードを選ぶことで。でも、数少ないカードの語彙では思いの丈には届きません。そんな時、あのホーキング博士が、指先の操作でパソコンを介して音声合成で言葉を発生させるツールを使用しているのをテレビで見たのです。あの機械があれば、自分も言葉を伝えることができる。果たして、音声発話装置「エルヴァイラ」を手にいれたメロディは、このツールを使って、学校で普通学級の子たちと渡り合っていきます。
障がいのある主人公を描くことで、物語はひとつの方向を向いてしまうことがあります。不自由な身体と自由な心は逆説的に結びつけられ、ありていな美談が成立する予見が与えられます。無論、美談は美しいものです。ただ、物語はそうした紋切型だけでなく、本書のように、もっと人の心に切り込んでいく力強さを持つこともできるのです。障がいがある友だちを理解しようというお題目の下、最初は奇異な目で見ていた同級生たちが最後には改心して心を通じさせる、なんて物語だけが人に感動を与えるわけではありません。障がい者もまた、聖性を求められず、もっと当たり前の人間としての豊かな感性を披露することができるのです。言葉を獲得したことでコミュニケーションをとれるようになったメロディは、十一歳の普通の女の子が体験するだろう学校の瑣末な人間関係を味わうことにもなります。メロディが特別に不自由で、特別に優れていて、特別に注目されることで受ける痛み。嫉妬や羨望、憐れみや見下されること。それは、障がい者だからということだけではなく、ごく普通の子どもも体験するものです。難しい立場に立った時、自分をしっかりと持って、理不尽な同級生と対峙すること。これは障がいの有無に関わらず、貫くことが困難なものです。だからこそ、毅然としたメロディの姿には、胸につきあげるものが生まれてくるのです。
豊かな言葉に彩られた物語です。それはメロディが言葉というものを甘美に受け止め、歓びとともに感じとっていくからです。心の中で閃く言葉は詩的で優美で、それゆえに、自由に表現することができないメロディのもどかしさを思います。鋭い感受性は双刃であり、深く傷つくこともあります。メロディは学校対抗のクイズ大会で、その抜群の記憶力を発揮して、頭角を現していきます。教師はメロディを傷つけないようにと配慮していたぐらいなのに、その知力は周囲を驚かせていくのです。ただ、こうした成功が難しいものを伴うのが子ども同士のパワーバランスであり、単純ではない関係性を捉えたこの物語の繊細さに感じ入ります。自分の真価が周囲に認められていく時の胸の高鳴り。自分だけが除け者にされてしまったことへの憤り。十一歳の少女としてのメロディの等身大の心の動きは実に魅力的です。あらすじを読んだ際には、同じく脳性マヒの人物を主人公にした『ピーティ』が想起されたのですが、既視感としては、岡田なおこさんの『薫ing』でした。やはり障がいのある女の子の学校生活を描いた作品です。二十年以上前に読んだ作品ですが、記憶にあるのは、彼女にどんな障がいがあったかということではなく、彼女の心が学校生活の中でどう震えていたか、ということです。やはりいかに不自由でであったかということよりも、いかに自由であったかが胸に刻まれるものですね。