あしたの幸福

出 版 社: 理論社

著     者: いとうみく

発 行 年: 2021年02月

あしたの幸福  紹介と感想>

「発達障がい」というものへの認識があるかどうかが、この物語の鑑賞を分けると思います。海外の児童文学作品では頻繁に取り上げられている題材ですが、国内作品ではまだそれほど多くは扱われておらず、特にかつてアスペルガー症候群という診断名で知られていた、自閉スペクトラム症については、ようやく触れられるようになった程度の現在(2022年)かと思います。この物語では、主人公の母親が、その状態を顕著に示した人です。空気を読むことができず、人とのコミュニケーションに難がある。アスペルガー症候群の母親を娘の視点から描く物語といえば『わたしは倒れて血を流す』が思い出されます。「障がいの特性」と「個人の個性」の境界について非常に考えさせられた作品でした。アスペルガー症候群という診断名がついたことによって、「自分の際立った個性(欠点)」に説明がついてしまい、アイデンティティクライシスに陥る母親を、娘が見つめる展開には驚かされました。人間の性格的な特性は脳のコンディションによるものである。この視座からは、登場人物の個性が解体されてしまい、それこそ赤毛のアンも地下鉄のザジも長靴下のピッピだって、なんらかの診断名でパッケージされ、症例のケーススタディになってしまうのです。概して子どもは「母ちゃんの取り扱い」方法についてパターンを見出していくものですが、そこに発達障がいを意識するとなると話は複雑になります。これはまた鬱病などで「心を病んだ親」への対応と似たところがあるのですが、本書はそうした要素も入っていて、実に盛り沢山の論点を孕んだ作品となっています。何より、障がいや病気の親を、子どもがケアしていく大変さがテーマではないことが重要です。それはそれとして、幸福とはなんなのかということが問いかけられます。人の心の特別な状態を、障がいや病気として向き合わないことで、受け入れられるものもあります。それは頭で考え理解することではなく、心で感じとって共生する歓びを受けとめることではないか。ということで、発達障がいについての認識がない方がこのテーマを深く受け止められる気もしているのです。

突然の自動車事故で父親を亡くした、中学二年生の雨音(あまね)。母親は物心つく前に家を出ていってしまったまま、ずっと会ったこともなく、父と二人で暮らしてきました。これからどうやって暮らしていくか。親族に持て余されていることを感じとってしまった雨音としては、このまま同じ家で暮らしたいと思うものの、中学生の一人暮らしはハードルが高い。そこに『お困りでしたら、わたしと住みますか?』という提案を持ちかけてきた人がいました。それが子どもの頃に別れたままの母親であることに雨音は驚きます。国吉京香と名乗る母親の、再会を喜ぶでもない素気ない態度に雨音は戸惑います。父方の祖母が「欠陥人間」と呼び、嫌っていた実の母親は、たしかにどこか普通ではない佇まいのある人でした。本人もまた、自分は他人を思いやるような言い回しはできず、思ったことを口にしてしまいがちで、人との付き合いが不得意なのだと説明します。雨音にずっと丁寧語で話し、母親らしい振る舞いもしない。とはいえ、一緒に暮らしていく中で雨音は、この臨機応変とは無縁の母親の人となりと、その真摯な生き方を体感していきます。さて、突然に父親を亡ったばかりの雨音はまだ気持ちの整理がついていません。彼女を取り巻く周囲の人たちも彼女を気づかってはくれるのですが、その距離感が雨音にとって適切かと言われれば、難しいものがあります。そこに正解などあるのか。友人の廉太郎や父親の婚約者だった帆波さんは、それぞれに自分の事情を抱えながらも、雨音を支えてくれます。人が自分を思いやってくれる気持ちを素直に受け止めることも、人に歩み寄ることもまた難しいものです。人との距離を計りながら、少しずつ間合いを詰めてみる。雨音の心が解けていく姿や、彼女が包まれていたものに気づいていくプロセスに、幸福の意味を見出せる物語です。

人に嫌がられるようなことはしたくない。だから言葉を選び、近づきすぎない。そう考えるのは、自分が人の気遣いや憐れみに敏感で傷つきやすいからでしょう。鈍感な好意は、むしろ心に不法侵入されるようで警戒感を抱いてしまうものです。だから自分も人との適切な距離を測ろうとする。自分がデリケートだと、デリカシーを意識しすぎることになります。でも、その匙加減が適切かどうかはわからない。そうした感覚がそもそもない母親の、ある意味ナチュラルな姿勢が、雨音に与えていく気づきがあります。他人を思いやるような言い回しができないだけで、他人を思いやらないわけではなく、余計な忖度にがんじがらめになるようなこととはない。とはいえ、トラブルを生むことも多いし、周囲の認識がないと、こうした人の生きづらさは軽減されないでしょう。そこに人との巡り合わせの奇跡はあります(障がいと認めた上での建設的な改善策は置いておいて)。人にどう助けてもらったら良かったのか。僕も子どもの時に母親を亡くしていて、周囲の大人たちの憐憫に、どう対峙して良いかわからなかった記憶があります。逆に、今、そうした境遇の子どもを前にしても、かける言葉が出てこないのは、自分の当時の気持ちに照らして考えてしまうからです。心を病んだ親と暮らしている廉太郎の事情を知った雨音の逡巡する気持ちもまた、自分がどうして欲しいのかわからないからでしょう。ここに、共生するという概念が出てきます。歓びも悲しみも分かちあって、共に生きていく。そんな穏やかな営みが、人の心を癒やしてくれるし、幸福とはそうしたあわいに生まれているものかも知れません。で、この感想のまとめは「適切な配慮が人間関係を円滑にします」ではない、というニュアンスをご理解いただければ幸いです。