アンチ

ANTI.

出 版 社: 岩波書店

著     者: ヨナタン・ヤヴィン

翻 訳 者: 鴨志田聡子

発 行 年: 2019年09月

アンチ  紹介と感想>

アンチとは反対を示す接頭辞で、アンチテーゼとかアンチロマンとか各国語で共通して使われている言葉です。敵対することを表わすものですが、自分が子どもの頃から刷り込まれているものとしては、アンチ巨人という言葉があります。プロ野球の巨人軍の人気が圧倒的であった頃の話なので、アンチという言葉には、単に好き嫌いだけではなく、権威や大勢に対する反骨心ではないのかと感じていました。小さくて弱いものに対してはアンチ、という言葉は不似合いかなと。大勢や体制、旧弊した既存の価値観と闘うもの。そんな闘志も感じています。この物語の主人公の名前はアンチ。本当の名はドロール・アンチルビッツですが、何にでも反抗的だから、そんなあだ名で呼ばれています。イスラエルの大都市、テルアビブに住む十四歳の少年には、アンチのスピリットを貫く魂の理由がありました。それは単に反抗期だから、ではなく、心に負った痛みを中和するための生き方のスタイルだったのです。物語は、アンチがラップやヒップホップのグループ、「ラプトル」のクルー(仲間)になり、そこから訣別して、新しいグループを作り自分たちのラップを表現していく姿を描きます。古巣のラプトルとラップ大会で競い合うクライマックスは圧巻で、駆け抜けていく言葉の疾走感には興奮を覚えます。ヘブライ語文化圏であるイスラエルにアメリカ文化のラップが掛け算された物語を、流暢な日本語のラップとして読める僥倖には、翻訳者をはじめとして、この本を日本語で刊行した方たちをリスペクトするところです。ともかくも、まずは読むんだYO、なんてノリで、ご紹介するのもおこがましいけれど、いってみましょう。いや、フリースタイル具合にマジ泣けたっす(これも四半世紀前のフレーズですね。日本語ラップの変遷も文化史として、非常に興味深いのですが、また別の話で)。

伯父であるマティの死が、アンチがラップに目覚めるきっかけとなります。その死がうつ状態からの自殺であったことは、家族の心に大きな打撃を与えました。アンチもまた失意と、内側からイライラする気持ちに突き動かされていきます(この気持ちを「ハラネズミ」と呼びます)。重苦しい気持ちに沈むアンチに衝撃を与えたのは、アメリカに住むおばさんかもらったCDでした。エミネムというヒップポップアーチスト。この楽曲に夢中になったアンチは、もっと多くのヒップホップを知りたくなり、足を運んだCDショップで運命的な出会いをすることになります。同じ中学に通っていた二年先輩の問題児でありセレブのアラド。そして、彼の仲間のリサ。伯父さんの自殺のことを知っていたアラドに声をかけられて、彼らが作ったヒップホップグループであるラプドルに加わることになったアンチは、自分のラップの才能に気づいていきます。そして、リサに対して好意を抱いている自分の気持ちにも。ラプドルが反社会的であるのは、ラップのスピリットだけではなく、万引きや窃盗を常套としていたことでした。このことで、やがてアラドとリサ、そしてアンチは対立します。物別れとなり結果的にラプドルを脱退したリサとアンチは、二人でグループを組むことになります。クルー(仲間)のいないグループは圧倒的に不利ながらも、学生のためのヒップホップの大会『暴力ではなく言葉で』にエントリーした二人。ここでライバルたちとラップで闘っていく彼らのパフォーマンスが見どころです。リズムと韻律、冴えたフレーズや、鋭い警句。言葉と言葉でぶつかっていく少年少女の闘い。それはディスり合いながらリスペクトするラップの真骨頂であり、さらに相手の心臓をえぐり、魂を潰すような真剣勝負の問答となります。大会優勝の行方も気になるところですが、失意に沈んでいた少年が見つけ出した場所での、心の再生のドラマにグッとくるのですよ。

あとがきで訳者が、この物語の背景であるイスラエルの事情を解説してくれていることで、より理解が深まり、主人公のアンチの心情を感じとることができます。伯父さんであるマティの死については、ユダヤ教の戒律で自殺が禁忌とされた行為であることや、それが学校中に知れわたっている状況が、アンチに何をもたらしたかも考えさせられるし、マティの弟であるアンチの父が、ショックで鬱状態になってしまっている状況も腑に落ちます。アンチがカウンセリングで伯父の死に触れることをためらう姿も、その心的外傷の大きさを物語っています。だからこそ大会の観衆の前でマティについて、ラップで語る場面は圧巻で、機器のトラブルでトラックが流れない状況の中、アンチが言葉だけでリズムを作り、観客の心をつかんでいく姿には打たれます。僕も子どもの頃に家族が自殺しているのですが、十代の頃はそんなことを、とてもとても人前で口にはできなかったので、どれほど意を決した行為なのかということがわかります。その言葉の冴えに魅せられる物語であり、読むことで湧き上がってくる勇気と興奮があります。心を病んでしまった父親の気持ちを動かすアンチのパフォーマンスに、言葉の持つ力の可能性を改めて感じられた作品です。